教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 532回 教育は 取引ではない

「ビー玉貯金、喧嘩しなかったらビー玉1個を与えて、それを貯金する。
たまれば宿題なしなどのご褒美をあげるようにする。」
これは、ある先生が先輩の先生からアドバイスを受けたとのことでした。
その先生は、一時的には、子どもの喧嘩は減少するかもしれないけど、本当にそのような方法を使っていいものかと迷っているとのことでした。


これは、教室のなかで、よくある手立てです。
今までびっくりした手立てもありました。
阪神好きな先生が、阪神が勝ったら全員の宿題がなしになる学級がありました。
友だちを助けたらシールを一枚はらせて、10枚たまったら、宿題を少し減らすというのもありました。


おそらく、この手の方法は、至るところにあると思われます。
何かを何かに置き換えて指導する。
店のシール集めでもありますね。
300円分の品物を買ったらシール1枚もらって集める。
そして一定の枚数が集まるとある品物に交換できるというのがあります。
しかし、これは、経済効果、販売効果を促進するためのものです。


しかし、教育の交換制度は違います。
「けんかしないこと」が「宿題なし」と交換されます。
「けんか」と「宿題なし」となんの関係もありません。
子どもたちは、宿題なしになることを目指して、「けんか」をしないようにしてビー玉をために入ります。


子どもがけんかを自覚、その原因、自分の気持ちを考えることはありません。
けんかが周りに与える影響も考えることはありません。
自己抑制することの意味、大切さを考えて自覚、自律することはありません。
先生は、教育を方法として考えておられます。
「何かの手を打ったら、必ず子どもたちが変容する」と思われています。
スイッチを入れたら、必ず、あかりがつくと思われています。
機械ならそうでなければなりません。


しかし、教育は「操作」ではありません
機械は「操作」そのものです。
人間の思い通りになる、操作どおりになるのが機械です。
機械は、人間の道具だからです。


教育は、「意図しても思い通りならない」ことが出発点です。
「教える、育てる」ことの難しさ、人間を育てることの難しさを抜きにして、ビー玉効果を
実践することには賛成できません。


ただし、教室で子どもが荒れてくると、一発効果を期待するものです。
追いつめられた先生の苦肉の策として誕生します。
子どもへの迎合、へつらいが始まります。
しかし、その方法は、一時的なもので教育とは無縁のものです。


子どもが変容するのは「操作」ではなく「人間的な営み」です。
先生の生き方が子どもの生き方に関わるのです。
子どもたちは、先生の人柄、やさしさ、細やかさ、勇気にふれることで、その影響を受けて育ちます。
だから、先生であることは怖いのです。
私のように人間として修行のできていない者が、子どもたちの前にさらされて生きることは怖いことです。
その怖さが先生としての自覚、自律を促すことも事実です。


以上のことを話したうえで、ビー玉の実践を勧めます。
結果を見届けることをお勧めします。
そのなかで、教育とは何かを考えられたらいいと思います。

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