教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 530回  6月 先生のグチる時がきた

授業について、相も変わらず高い次元を目指しての論は繰り返されています。
しかし、現実の授業は
なぜ、子どもは積極的にやろうとしないのか。
どうして、できない子どもが多いのだろうかという次元の問題から、一歩も踏み出せていないよう思います。


先生は、「やらない子」「わからない子」」「できない子」に、放課後、特別の時間を割いて補習授業をしています。
基礎学力と称して、先生が子どもに手をとって教え込みます。
宿題は、「やらない子」「わからない子」」「できない子」にとっては大きな負担をかけます。


学習意欲のない子どもたちにいくら教え込んでも勉強嫌いをつくるばかりです。
「やる・わかる・できる」授業の創造こそ、どうしても築きあげなければならない先生の仕事です。


職員室の先生方の愚痴は、「やる気のない子」「できない子」に関することが多いです。
特に、6月になると、最初4月には意気込んでおられた先生も、愚痴が出始めます。
「今年の子どもたちは粒がそろっていない。」(果物ではありません)
「今年は教えても理解できない子どもが多いなあ」(だから、先生がいるのでは)
「何回言っても宿題をしてこない子どもがいる。」(その原因は誰にあるのですか)


多くの先生は、自分の授業をこれでよしとは思っておられません。
だからこそ、質を高める努力しかないと考えます。
学級の質が高い時は、先生の実力が高まった結果と錯覚されます。
学級の質が低い時は、子どもたちの能力の低さを嘆かれます。


さらに、現実の子どもたちの質が高まらないのは
子どもの根性、生活力の低下
家庭教育力の低下
社会環境の問題
道徳の低下
教育制度の混乱 教員の定数 雑用の過多など


まわりの問題点を引き合いにだしてこられます。
どれも間違いではないかもしれません。
しかし、一日の三分の一を共に過ごしているのは先生です。
先生の目の前には、子どもたちしかいないです。
先生は、子どもにとって大切な存在なのです。


医者は患者の病気が治らないことを自分の治療の問題として考えています。
患者を否定することはありません。

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