教育随想 529回 見栄えのよい授業への憧れ
子どもによる子どものための学習、授業。
子どもが理科の授業を学級会形式で司会をしています。
参観者は、これが子どもたちの主体性かと感動しておられました。
先生は、補助として参加しています。
「言っていいですか」「はい、○○さんどうぞ」と指名を受けて子どもが自分の意見を言います。
そのあと、「ぼくの意見について、○○さんはどう思いますか」と指名します。
こうして授業が続いていきます。
「子どもが子どもを指名する授業」
なんとなく子どもたちの主体性が生かされているような錯覚に陥ります。
一時間の授業、初めから終わりまで子どもたちだけが話し合っていました。
物語の授業でした。
先生は一回も入ることなく、実にテンポよく話し合い学習を進められました。
参加者は、「指名なしの授業」にあこがれていました。
これは、ある研究会の授業風景でした。
私は、この授業の後の研究会で意見を言わせてもらいました。
多くの先生が感動、賞賛されているなかで、私は、参観授業を否定しました。
その内容は次のようなものでした。
子どもたちが先生を介在することなく、授業を進めていました。
しかし、個々の子どもの表情は、決して明るくなりませんでした。
自分の意見を言わなければという緊張感が続いていました。
友だちの意見を聞くよりも、自分が発表しなければというプレッシャーを感じました。
子どもたちは、物語文の主人公の心情に迫っていません。
話し合うということだけが形式化していました。
今日の授業で、子どもたちの作品に対する想いは深まったのでしょうか。
深まったとしたら、子どもたちの表情は後半、明るく、充実感に満ちたものになります。
私が気になったのは、子どもたちが話し合っているとき、相手の考えにひつかかりを覚えて質問していないことです。
何か台本があって、意見を言っているようです。
それは、子どもたちがノートを見て話していたからです。
授業の形式は、指導者の理念、目的によって、個性的であっていいと思います。
しかし、その目的は、一人一人の子どもたちの考え、心情が変容することです。
さらに言わせていただきますと、この話し合いのなかで、先生が子どもたちの話し合いを
ストップさせて、介入すべきところがいくつかありました。
ある子どもの考えをてこにして、内容を深めるとき。
あるいは、全員の子どもたちが話し合いに参加できなくなりかけている時。
考えが対立しているとき、お互いの考えを中心にすえて、話し合いを深化させる時・・・
今も昔も、授業の型を整えようとします。
上記の例は、集団主義教育です。
集団教育ではありません。
集団主義教育は、個を犠牲にしても集団の形式を尊重した活動です。
集団教育は、個を尊重し、子どもたちの意向にもとづいた集団活動です。
この二つは、授業を見てもわからない場合が多いです。
集団が目指している「ある目的」のために集団の機能を発揮します。
ここまでは似ています。
しかし、集団教育は、集団の活動が一人一人の子どもたちに還元します。
子どもたちの願いが集積されて集団の目的になっています。
ところが、集団主義教育の場合、個々の子どものためではない場合が多いです。
指導者、先生が自分の評価を高めるために、個々の子どもに強制していることがあります。
授業参観者に、好印象を与えるための学習になっていることがあります。
指名なしの話し合いという枠に子どもたちをはめ込んでいます。
子どもたちの思考の深化は関係ありません。
授業参観をしていると、二つの場合があります。
子どもたちを育てようとしている授業か、授業の形態を見せつけようとしている授業か、判別がつくはずです。
授業参観では、どうしても見られているという意識、よく見られたいという意識が生まれるのは当然のことです。
ただ、そのことが子どものためか、先生のためか、どちらでしょうか。