教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 509回 先生の曲がり角

先生も15年ぐらいたつと、大きな曲がり角がおとずれます。
もちろん、それぞれの先生によって、年数は違います。
先生として、一応の経験を積んできます。
まわりからは、ベテランとして見られるようになります。
自分なりに教育技術を確立したと考えられる先生もいます。
しかし、その技術や考え方が、どこか自分本位ではないかなと感じることがありました。
ごめんなさい、これは、すべての先生に当てはまるのではなく、ほんの少数の先生のことだとお考えください。


子どもの実態に沿って教育をしていたのが、いつしか、自分の教育方法を過大評価して固執するようになります。
さらに、子どもを自分の教育方法に合わせることが教育だと錯覚を起こします。
学級崩壊が若年の先生より40過ぎの先生のほうが多いそうです。
若い時は、自分の経験がないので、その分、子どもたちの動向を探ろうとします。
ところが、年数が増えると(経験を積むとは違います)真摯な態度から怠惰な態度になっていくことがあります。(ほんの一部ですよ)


先生という仕事は、「子どもを相手にするプロ」です。
どのように自分を改造したら定年まで使えるかを考えているはずです。
アルバイトで勤めているのではありません。


子どもたちは、先生に対して、人間的魅力を直観的に見抜きます。
そして、先生の気合、迫力、熱意といったものに反応します。
子どもは何事であっても、勉強でも遊びでも、先生の前向きな真剣さが大好きです。
もちろん、教育技術や知識といったものにも反応しますが、それは、一時的、表面的な反応に終わることが多いです。
それでも、技術で子どもを指導することが大事だとおっしゃることでしょう。
否定しません。私もその意見を否定しない一人です。


しかし、子どもがよく、先生を大好きになる理由は、その先生の人間的な魅力、生き方なのです。
これは、何年も子どもたちとつきあっていくなかで培えるものです。


初めから先生に向いている人はいないと思います。
子どもとの切磋琢磨のなかで、先生としての人間性が蓄積されてきます。


「子どもが好きなので先生になりました」という方がおられます。
だから、先生に向いているのでしょうか。


自分を育てることが人の心を育てる」と、昔から言われています。

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