教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 508回 教師、教員、職員 どれですか?

先生は、教師、教員、職員のどれですかと尋ねることがあります.
職員は、一応、公務員という身分が保証されています。
教員は、教育に携わる公務員としての立場です。
教師は、となると私は自分を振り返っても言いづらいものがあります。
しいていえば、私は、教員と教師の間ぐらいの力しかなかったと思います。


先生になってからの6年間で、その先生の方向性が決まると若い時に言われました。
学校にも慣れ、事務処理もこなせるようになる期間です。
同時に、この6年間は、何もわからないまま、手探りの期間でもあります。
できた、できなかったもわからない時です。
ひたすら、わからないまま希望と不安のなかを突き進む時でした。


ところが、最近の先生を見ていると、実に落ち着いて見えることがあります。
ネットや書籍から、手軽に指導の手立てを得ることができます。
授業に至っては、指導案のサイトがあり、そこに、アクセスすれば、指導の流れがわかるようになっています。
「落ち着きのない子どもへのかかわり方」「暴力的な子どもへの対処の仕方」など、困ったことがあると、ネットから情報を得ておられます。
「こうすればいい」という思いで、対処されているようです。


ある時、ベテランの先生が言われたことがあります。
「若い先生から、指導について相談を受けることが少なくなってきたように思います。」
先生同士の教え合い、切磋琢磨の場面がなくなってきたようです。
職員研修の話を伺っていると、特に、そのように思えます。
全体で、お互いの足りない面を補い合うという前向きな研修ではなくなってきているという話を聞きます。
もちろん、そうでないところも多くあるとは思います。


情報化社会において、教育技術は、ネット情報に依存しています。
若い先生に限らず、中堅の先生も、子どもたちの事実からつかみだした技術ではありません。
臨床的な教育活動ではないように感じるのです。
どうも教育が頭の中だけで行われているように思います。
子ども一人ひとりの事実から目をそらしているのではと疑います。
先生の観念や思い込みのなかで子どもが捉えられているようです。
参考書から出た教育技術が、子どもたちを枠にはめています。


教育は、試みです。挑戦です。挑戦は失敗を生みます。
失敗から次の試みが生まれます。
そのようにして、先生の独自の理論が生まれます。
その理論は、参考書やネット検索からでてきたものではありません。
子どもと接して、子どもの中にしっかりと身体入れます。
子どもに悩み、子どもに教えられ、先生としての未熟さに気づかされます。
未熟さに気付き続けることが、先生としての資格ではないのでしょうか。
教師、教員、職員 どれでしょうか?
ふり返るのもいいですね。

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