教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 485回 先生と呼ばれることへのためらい

先生は、できるだけ子どもに好かれたいと思うのは当然のことです。
しかし、先生という仕事は、学校や教室では、子どもの前では力のある存在です。(力がなくなりつつあるのですが)


子どもたちに好かれたいために、話に受けをねらっておもしろいことを言います。
ギャグ、ダジャレを得意とする先生もいます。
教育の世界、特に、学校は恐ろしいものです。
力がなくても、子どもたちは「先生・・」と声をかけてくれます。
新卒のとき、最初の赴任校で4年生を担任しました。
子どもたちが、私のことを「先生」と呼びました。
思わず振り返り、誰のことか、私のことなのかと思いました。
二週間前まで、大学生であった私が、いきなり「先生」と呼ばれることの違和感がありました。
「先生」と呼ばれると、少しだけ偉くなったような気もします。(錯覚ですが)
その一方で、私は「先生」と呼ばれる価値があるのだろうかとも考えました。
あるわけないですね。


しかし、何年も先生を続けていくと、先生と呼ばれる座にあぐらをかくようになってきます。
私は、自分を先生と呼ぶことには、最後まで抵抗がありましたから、必要な時以外は、「私は」という言葉で通しました。
子どもたちが「先生はどうして自分のことを先生とよばないのですか。」と疑問をもたれていました。


教育の場における先生の立場、自分を振り返ることでしか、先生という役割を維持することはできません。
私のように人間的に深みのない人間は、いつも子どもたちに後ろめたさのようなものを感じていました。
しかし、その気持ちも時々麻痺することがありました。


先生は、子どもたちに好かれることよりも嫌われないようにすることが大切だと考えてきました。
好かれようと思うと、自分でないものを見せようとします。
虚栄心が表にでることもあります。
それよりも、子どもたちに嫌われないように、自分自身を反省の材料にするようにしました。もちろん、すべて、うまくいくわけはありません。
後悔の繰り返しでした。
それでも、先生という立場を振り返る時間をつくることが必要だと考えました。
それが、できるだけ毎日書いた「教師日記」です。


子どもたちを見ていると、節度をもって接することが大切だと思いました。
節度とは、切り替えでありマナーです。


次回から「先生の子どもへの接し方に節度がない」ことについて、具体的にお話します。
私の反省を含めてお話します。

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