教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 466回  授業 子どもたちは自由に話せない

授業において、まず、求められるのは、子どもたちの自由な考え、思いの発表です。
それを妨げているのは、指導者の発言制限です。
課題遂行役立つ発言は優遇され、達成に関係のない、あるいは、阻害する恐れのある発言はあまり取り上げられません。
こう話すと、そんなことはない、子どもたちに自由に発言させていると言われそうです。
しかし、指導者は、自分で気づかないだけで無意識のうちに子どもたちの発言を制約しています。


一つは、子どもたちの発言を聞いている先生の表情です。
笑みをうかべていたり、渋い顔したり、あるいは、無表情であったりします。
子どもは、低学年ほど、自分が発言した時の評価を先生の表情のなかに求めます。
これは、授業参観されたらすぐにわかります。
児童が自分の考えを発表したとき、すぐに、先生の表情をちらっと見ています。
すでに、子どもたちの発言は、先生を納得させるかどうか、気に入ってもらえるかにかかっています。


二つめは、子どもの発言のあとの先生の言葉添えです。
「そうだね、よくわかったね」
「う・・ん、それはどうかなあ」
「他にもっといい考えはないかな」
「今、考えていることからはずれているね」
「今の考え、よく言ってくれたね」(待っていた気持ちをあからさまに)


このように子どもたちは、先生を正誤判定の信号機のようにして学習する習慣が身についています。


したがって、ここでわからないから質問したら
「今さっき、言ったでしょ。きいていなかったの?」と注意されることがあります。


さて、発散的思考は、先生の意図に関係なく、なんでも出し合える空気づくりです。
子どもたちの考えに先生が価値判断をしないことです。
友だちと同じ意見であっても、類似していても認め合います。
そのかわり、どのような意見であっても批難したり嘲笑したりしないようにします。
これは、先生が厳しく介入します。


こうして、なるべく多種多様な考えを出し合うようにします。
自由に出し合うことが発散的思考につながります。
挙手せずに、つぶやきも含めた自由発言を展開させます。
このようにすると、学びの広場が大きく広がってきます。
やがて、収束的思考(まとめる、たばねる)段階に入ります。

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