教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 460回 授業は ずれをめぐって 展開する

前回に続いて、上田薫先生の文章を引用してお話します。


「教師は子どもに考えるゆとりを与えなければならない。教師の用意した単純な正解に強引に引きずっていく暴力はやめなければならない。一時間ごとにいくつかの結論を割り付けて、理解したことに帳尻を合わせる愚をもはや繰り返すことはできぬ。」


先生が用意した授業の分節ごとの結論に子どもたちを追い込んでいくことがあります。
子どもたちに考えなさいと指示しておいて、5分間もの時間を待てないことが多いです。
先生は自分の決めた結論に向かいます。
自分にとって都合のよい子どもたちの発表を拾いながら授業を展開します。
子ども主体とは名目ばかりの授業になっています。


「教師が子どもに与えるということは、教師が、把握し与えようとする内容とずれたものを、子どもが受け取ることにほかならぬ。授業はこのずれをめぐって展開する。そして、そこに生ずるのが生きた授業の流れなのである。」


ここのところはとても大切だと思っています。
先生が教えようとしたことと子どもが受け取ったことには、常にずれがあるということです。
算数の計算学習において、計算の手順を教えたとします。
しかし、その手順について、納得している子とそうでない子、手順通り計算しても、そこに不安をぬぐえない子もいます。


国語の登場人物の心情にいたっては、先生の思いと子どもたちの思いには大きくずれがあります。
そのずれこそが、授業者として楽しくもあり学ぶべきことでもあります。
先生が教えることを子どもたちがそのまま理解するわけではありません。
常に、ずれがあることを意識して、そのずれを授業の表舞台にあげてくる指導者の力量が大切です。
ですから今までもお話しましたが、授業は滞るものです。
滞ることを恐れることなく、楽しめることが大切です。


さらに、引用を続けます。
「授業の中にはひとりひとりの子どもの個性がにじんでいる。能力がうかんでいる。生きた流れは、それらが微妙に醸し出す動きである。教師が子どもたちのなかに深くふみこんでいこうとすればするほど、この流れと忠実に相対していかなければならない。いや、相対しながら、教師自身が、その流れを生み出していかなければならない。」


先生の指導内容を受け取る子どもたちは、それぞれの能力と個性でもって受け取っています。先生と子どもたちとの間に生じるずれは、子ども一人ひとりの個性と能力の違いです。
したがっ、先生は、子どもという人間の内面に少しでも入り、子どもたちを内側から理解するようにします。
授業において、それぞれの個性がにじみ出るような学習指導でありたいと思ってきました。
それができると、教室は活気に満ちて子どもたちの顔が輝いてきます。
それを見ている先生も子どもたちからエネルギーをもらって元気になります。


授業は先生と子どもとの認識のずれをもとにして展開します。
そのずれは、子どもたちの能力と個性を背景にしています。

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