教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 456回  自主的な学習活動とは、先生の指導性の縮小

子どもたちの自主的な学習活動を妨げているものに先生の指導性があります。
4月ごろの授業を思い出してみてください。
先生の指導として


今から算数の勉強をします。
教科書をだしましたか。
ノートも出しなさい。
筆箱から筆記用具をだしなさい。
椅子をひいてきちんとすわりなさい。
教科書の8ページをあけなさい。
今日から「大きい数のしくみ」について勉強します。
それでは教科書を読みましょう。


さて、以上のように、先生の細かい指示で学習が始まっています。
これらの指示が3学期後半にいまだに行われているとしたらどうでしょうか。
子どもたちの自主的な学習活動が育ったといえるでしょうか。
上記の指示は、今の2月には一切必要ないものです。
子どもたち一人ひとりが自分の頭で考えて動けるようになっているはずです。


さらに、先生が教室に入らなくても、始業の合図で子どもたちの学習活動は始まっているはずです。
教科に関わりなく、今日の本時の学習を始めているはずです。
教科書を読んで、課題を見つけます。
何をどのように勉強するのか心得ています。
先生がいなくてもできる学習活動が始まっています。


国語なら音読練習がチャイムの合図とともに始まっています。
前時の学習の続きから始めています。


4月は先生の指導性が強かったものが3月には最も低いものになってきます。
一時間の授業において、先生が話す活動と子どもたちが話す活動の割合が違ってきます。
4月は9割が先生の指示と話であっても、3月は3割から2割になってきます。
先生の一言、発問や助言で、子どもたちが自分なりに活動を始めます。
その間、先生は子どもたちの学習活動に介入しません。
その時にこそ、子どもたちの自主的な学習活動が育っているといえます。


先生が出張や用事で教室を開ける時の学習は、子どもたちが学習を自主的にできるかどうかを見極める時でもあります。


子どもたちの学習意欲の向上は先生の指導性の縮小にかかっています。
一時間の授業に取り組むとき、先生と子どもとの活動の割合を考えてみてください。

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