教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 455回 二極化、三極化の授業

授業は、教材、指導者、子どもの絡み合いによって構成されています。
しかし、実際の授業を見るかぎりでは、指導者と教材は接近しています。
そして、子どもとは対極にあります。
そうです、二極化、指導者・教材 対 子ども の授業になっています。


教材と指導者が合流しているので、授業は極めてスムーズに運営されます。
講義形式に近い授業もこれにあたります。
時間配分においても、指導者の意図を反映していますので、きわめて順調に流れます。
指導者の言動は多いです。
発問と質問で子どもたちをひっぱりまわします。
「こうなるでしょ」「わかったでしょ」「これは覚えておいてね」


子どもの活動状況は、少数の優秀児、挙手する子どもたちに限られます。
そして、その発言内容は、ほとんど指導者の下うけ活動です。
指導者がどのような発言を望んでいるかをいち早く察知して挙手します。
指導者も授業を進める上で必要な発言を優先的に取り上げます。
授業後の先生の感想
「子どもたちが、私が言ってほしいことを発言してくれました」
「子どもたちの発言に助けられました」(主人公はだれ?)



教材内容は先生の牽引力によって進行します。
「わかったでしょ」という殺し文句を多用しながら最後まで突き進みます。
時間どおり終了したことを誇示しながら、一方では、多くの落ちこぼれの子どもをだしています。


それとはまったく異なる授業について説明します。
指導者・教材・子どもがそれぞれ独立しています。
三極化の構造を示しています。


時間配分は、滞ることが多いです。
子どもの思考、理解に焦点が当てられているからです。


指導者の活動はとても少ないです。
子ども中心の授業においては、指導者の発言が極めて少ないです。
子どもたちの理解、思考の状態をみながら、それに合わせて助言をします。
指導者の指導過程よりも子どもたちの学習過程を優先しているからです。
子どもたちの前に立つのではなく、サイドに立つことが多いです。


子どもの活動は、話し合い、班活動が中心になります。
そして、子ども同士の質疑が多いです。
自主的に自分の意見を発表します。
教材の進度は当然のごとく遅れます。
しかし、落ちこぼれる子どもが少ないです。
さらに、子どもたちそれぞれの学習意欲が増幅されます。


進度は遅れても、一か月から二カ月で教材進度は回復されます。
4,5月はゆっくりと学習が行われますが、その先は、進度をあげてきます。
子どもたちの予習復習が活発化するからです。


二極化の授業
指導者は、教材研究において「これをどのように教えたらよいか」と発想します。


三極化の授業
この教材で何を育てたらよいか」という発想です。


一つの教材を前にして
「どのように教えるか」は、教材と指導者の意図しか見えてこないのです。
ところが
「何を育てるか」という視点にたてば、教材と子どもをつなぐことになります。
「何を」は、子どものどのような学びを育てるか。
「何を」は、子どもをどのような人間に育てるのかを考えることになります。


これらは、今までお話してきたことをまとめてみました。

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