教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 446回  時間つぶしの授業 苦行の授業

授業は、先生、教材、子どもの三つによって成立します。
その一つが欠けても成立しません。
無計画な自習は、たとえ先生がいても授業とは言えません。
先生が綿密な計画のもとで頑張っても、子どもが学ぼうという意思がなければ授業とは言えません。


教材は、子どもたちの人間性を導くに足るもの、知識、技能を啓発するものでなければ、いかにおもしろくても、やさしくても教材とは言えません。
教材は、子どもの人間性を育てる薬のようなものです。


授業が時間つぶし、むだになっていることが多いのではないかと思われます。
先生が本格的に教材研究をせずに、適当に子どもをあやつっている時間つぶしの授業
です。
教科書の表や文章をワークシートを使って、左から右に移しかえている学習をしています。
何も知らない子どもたちは、移しかえは考えなくてもいいので歓迎することもあります。
「読んでおきなさい」「書き写しなさい」
なぜそうするのでしょうか。
子どもたちに何を育てようとしているのでしょうか。
意図があればいいです。あれば・・・。


社会の苦手な先生が適当にビデオを見せて、あとは感想とその発表で済まされています。
その社会科の時間を埋めたらいいということです。


このような学習が続くと、
「また写すだけか」「こんなにたくさん写すの?」
視写することが学習になっています。
視写することが目的化して、手段としての意義を失っています。


苦行の授業
教材を生のままで子どもにぶっつけられる先生がいます。
子どもたちは考えようにも考えられません。
理解しようにも理解できません。
苦行の一時間が終わります。
先生は「ちょっと内容がむずかしかったかなあ」と言われていました。


今、勉強会に来ておられる先生の学校は、上のような学年が多いということです。
コロナで教育の遅れがあると言われているのは、学習時間の多少を問題にしています。
学習内容については、ほとんど言われません。
まして、限られた時間のなかでどのような力を育てているのか、話題にもあがりません。


さて、「時間つぶしの授業」「苦行の授業」についてお話しましたが、私も同類なのです。
毎日が同じように教材研究はできません。
体調や諸事情でできないこともありました。
教材研究不足は、子どもたちの前に立っても自信が持てなかったです。
それでも授業はしなければいけません。
そうすると、どこかでごまかしの授業をすることになりました。
一年間を通して、どの授業も手を抜かずに実施したことはありません。
さらに、授業や子どもに対する意欲が一定しないこともありました。


それでもどうにか子どもたちの前に立ち続けることができたのは、私がよい先生ではないからです。
だめな先生という自覚、子どもたちに対する申し訳なさがあったからです。
子どもたちの学びを求める姿を見るたびに、明日こそがんばろうという意欲を膨らませてきました。


子どもたちに導かれて、先生として、恥ずかしながら生きてきたというのが本音です。

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