教育随想 429回 授業は流すものではなく、深みに落ちること
明けましておめでとうございます。
私にとっては、日々が新年です。
私の思いを書き綴った記事を一人の方に読んでいただければ嬉しいです。
だれにも読まれなくなったら筆をおこうと思って、新しい年を迎えてしまいました。
私にとっては、私の記事に向かい合って読んでいただけるあなたが大切な人です。
授業にあたって大切なことは、クラス全体の子どもの心を、先生がしっかりととらえ、「はみだしっ子」「見落としっ子」をつくらないことです。
子どもたちは、一人ひとり能力や性格に違いや差があります。
そうした差・違いのある子どもの心を一つにまとめて、先生が授業をまとめていくことは、難しいことです。
しかし、次のような願いと目標をもって授業に臨むことは大切だと考えます。
子どもたちが心を一つにして学習問題にぶつかり合うようにします。
そして、学習問題の深みへと入り、お互いに力を出し合い、力を磨き合うところにいい授業が生まれます。
それとは、反対に、自由勝手に行動したり、他の子どもを妨害したりする子どもがいると、激しく叱って授業をひきしめようとする先生もおられます。
それは、本当の子どもの掌握ではありません。
先生の子どもに対する「威嚇」です。
どうして、授業において、子どもたちの掌握が必要なのでしょうか。
それは、授業は遊びではないからです。
ここのところが重要なのです。
子どもに楽しく学習させることを、リラックスした雰囲気で冗談も交えて実施することだと考えている先生も見受けられます。
そうではなく、学習の楽しさは、問題の深みに入っていくことです。
だから、真剣で粘り強い学びが要求されます。
子どもたちが盛り上がって、奇声をだしたりはしゃいだりして授業が楽しかったということではありません。
授業は、一定の知識や技能を習得・習熟するのが目的です。
発言人数が多いとか、リラックスして学んでいたということがねらいではありません。
一時的な現象として必要なこともあります。
学びに必要なことは、個人の集中力であり集団としての集中力です。
追究するために粘り強く考える忍耐力が要求されます。
子どもたち一人ひとりが、ありったけの力をだして学習に向かえるように指導します。
授業終了時に、子どもたちが「わからないことがわかる」「できなかったことができる」
ようになることです。
そこに授業者は、明確に目標をおきます。
わかったのか?
できるようになったのか?
この二つのことが子どもに対する目標です。
今、この原点を曖昧にしている授業が多いと感じています。
授業は流すものである。
授業は滞りなく終わればよい。
授業は、子どもたちが楽しんでいたらよい。
授業は、停滞しないように指導すればよい。
このような言葉が実際の現場の先生から聞こえてきます。
授業は停滞すること、その問題の深みに陥ることです。
先生サイドに視点をおくと、
学習内容をわかるようにしたのか。
学習内容をできるようにしたのか。
そのために、どのようにわからせたのか。
どのようにできるようにしたのかという方法を考えます。
ネット授業が言われていますが、それなりに効果的な面はあります。
ネットで授業をしていたらそれでいいのだという声もあります。
「わかったのか、できたのか」という評価をともなったネット授業を考える必要があります。