教育随想375回 やさしいけど乱暴な子 乱暴なところもあるがやさしい子
「次郎物語」を書いた下村湖人という人がいます。
私が中学の時、初めて読んだ小説です。
私は、次郎の生き方に共感したことを覚えています。
その後に出会ったのが、山本有三の「路傍の石」です。
少年の時から丁稚奉公に出された男の子のお話でした。
人生のなかで、いろいろな人、物、事象と出会います。
それらは、偶然ではなかったように思われます。
私のどこかに求めているものがあり、そのアンテナがたまたま一冊の本と出会わせたようです。
生きていくなかで出会ったすべてのものは、本当は、偶然ではなく、出会うべきして出会ってきたように思います。
下村湖人に次のような詩があります。
あなたとわたしとは
今 薔薇の花園を歩いている
あなたは言う
「薔薇は美しい。だが、そのかげには恐ろしいトゲがある」と。
けれども、わたしは言いたい。
「なるほど、薔薇にはトゲがある。それでも、こんなに美しい花を咲かせる」と。
前者は「トゲ」のほうに心が向いています。
後者は、トゲは許されるべきものとして、美しい花の方に心が向いています。
欠点であるかもしれないことであっても温かく肯定的にとらえています。
さて、私たちが子どもを見つめる目はどちらでしょうか。
やさしいけど乱暴なところがある子である。
乱暴なところもあるがやさしい子である。
子どもたちの問題点と呼ばれているところを否定的に見るか、肯定的に受容していくか、難しいところですね。
私たちが世間の人を批判するとき、どちらの立場をとっているのでしょうか。
子どもたちも含めて、完璧な人間はいません。
私は、人との関わりの土台にあるのは「許し合う」ことだと思っています。
挨拶ができない、言葉づかいが悪い、態度が横柄だという印象を受けることがあります。
しかし、それを自分に引き寄せて考えると、私にも似たような面があることに気付きます。
欠点を許し、相手の良さ、美しさを見いだしていける心、それが教育に携わる者にとっては、最も大切なことのように思われます。
子どもとの生活で、先生として反省してきた最も大きな視点です。
新学年の時、子どもの様子を引き継ぐとき、多くは欠点、問題点が中心になっています。
職員会で各学級、各学年で、問題になる子どもを取り上げて児童理解する生徒指導の場面があります。
私は、いつも不思議に思っていました。
どうして、児童理解であるならば、子どもたちの優れたところを先生方がだしあってその子の理解を深めようとされないのでしょうか。
先生は医者ではありません。
医者は患者に向き合うとき、体の悪いことを問題にします。
決して、患者の長所から入ることはありません。
学校の先生も子どもの問題点から児童理解に入っていないでしようか。
「あの子は問題がある」「あの子は指導に手こずっている」
先生の愚痴が先行されます。