教育随想 373回 学習指導は 逃げ道をつくらないこと
「わかりません」と「忘れました」
新しく子どもたちを担任すると、次のようなことがあります。
子どもを指名して問題の答えを求める時です。
「わかりません」と答える子。
「忘れました」と答える子。
前学年までは、この一言で許されていたようです。
子どもたちの実態に応じて、次のような言葉を投げかけます。
「わかりません」
どこまで考えてわかりませんという結論をだしたのでしょうか。
ほとんど何も考えないで、考えることを放棄、諦めたのでしょうか。
すべてがわからないのでしょうか。
わかっていることもあるのではないでしょうか。
わかる、わからないの区別をしているのでしょうか。
「わからないは」自分をスルーするための便利な言葉にしていませんか。
「忘れました」
忘れたということは、かつて、覚えていたのですか。
すべてを忘れたのですか。
部分的に覚えていることはないですか。
「わすれました」と「忘れました」を区別していますか。
「先生、教えてください」
どこを教えたらいいのですか。
どこから教えたらいいのですか。
どこまでならわかっているのですか。
あなたは、何がわかりたいのですか。
あなたは、どんなことをできるようにしたいのですか。
先生は、あなたたちに簡単におしえません。
先生は、あなたたちのわからなさの前で壁になります。
先生がすぐに教えてくれるような楽な道を選ばないでください。
ネット検索も、考えること(自問自答)を放棄することがあります。
わからないならわかるまで考えなさい。
わからないなら、自分で予想、推理しなさい。
わからなさは、学問の出発です。
わからなさは、学ぶための原動力です。
わからなさがあるから問題を追究することができます。
わからないことがあったら、しばらく、自分の中であたためなさい。
わからなさに見通しができるまで持ち続けなさい。
わからなさがわかるにつながっているとはかぎりません。
わからなさが増え続けるかもしれません。
最初は一つしかなかったわからなさが二つ、三つと増えるかもしれません。
そのようになったら、あなたは、学びに入っています。
あなたがわからなさに包まれるときが素敵です。