教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 371回 授業技術 「わからなさ」を競争

「できる、できない」「わかる、わからない」を言えることが学習の基本です。
これは今まで何度もお話ししてきましたが、今回は、実践に沿って書いてみます。


個人(自主)と集団(協同)の二つの観点から考える必要があります。


私たちは、できることよりもできないことの方が多いですね。
子どもたちは、何ができて何ができないか、何がわかって何がわからないかを明確に判断することが難しいです。
自分の姿を見つめることが苦手です。
自分の姿を評価、自己評価することになれていません。
周りの人々からの評価が、即、自分の姿になってきました。
そのような点においても、自分にとって「できない」「わからない」ことを凝視することは、できるなら避けたいものです。


そこで、自分の中の「わかる」「できない」をさがす場面と時間を設定します。
よく先生が指導することがありますね。
「読んでわからないことに線を引いてごらん」
「いくつ引けたかな?」
と、わからなさを多く見つけることを支持します。
そして、集団と比べて、できるだけ多くだすことに意味を見いださせるようにします。


その時に、「わかる」こともしっかりと見つけるようにします。
ところが、そのような「わかる」「わからない」の弁別をしているうちに「わかるような わからないような」グレーゾーンが出てきます。
これに気付くことが最も大切なことです。
集団と比べることで、「友達もぼくと同じだ」という共通感覚が芽生えるようになってきます。


授業を実施するときは、本時の場面、教科書の1ページに限定して「わかる、わからない」を見つけるようにします。
最初のうちは、その数を競い合う取り組みも有効です。


次に、「わからない」点を出し合うことで、集団としての課題ができることに気付かせます。
最初の間は、先生の課題を前面に出さないで、子どもたちの疑問を優先して学習指導をします。
わからなさを分類することも必要になってきます。
子どもたちの疑問は、初期段階では、先生が分類すればいいです。
個のわからなさが集団のわからなさ、学習課題になっていくことを楽しいのです。


さらに、「わかると わからないの間にあるもの」クレーゾーンにあるものを「わからない」の領域に入れさせるようします。
これらの活動を通して、学びの基礎を養うようにします。
先生がいきなり課題をだして、最後まで子どもたちを牽引していく授業をさけます。


個人でわからなさを見つけることになれてきたら、集団の場で少しずつ出せるようにします。
ここまでくると、わからないことをバカにする子どもはいません。
「バカの出発」としてもかまわないです。
それを子どもたちは楽しがるようになります。
やがて、先生の疑問をさりげなく入れていきます。
それが大きな課題、子どもたちの疑問を集約した課題になります。


こんな実践もあります、
教科書を読んで、「わからないところが3つ見つけたら立ちなさい」として、わからなさを認め合う集団の空気を育てるようにします。


無記名の用紙に疑問を書いて、それをもとにして先生が授業を組み立てるようにすると、わからないことが集団の学習において役立っていることにうれしさを覚えるようになります。
個人の疑問が生かされた授業を展開します。


時には、わからなさの数を自慢しあう場面を設定すると盛り上がります。
ノートに疑問1,2,3・・・と書いていきます。
わかることよりもわからないことのほうがより大切であることを感じられるようにします。
そこには、集団の雰囲気がとても大切です。
新しい学級においては、これらのことを少しずつ、子どもたちの集団の雰囲気を確かめながら実施します。
決して、最初から無理をしないようにします。


集団の雰囲気、わからなさを認めあえる雰囲気を育てることと個人がわからなさを出し始めることと同時進行していきます。
一か月の時間の幅が必要です。

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