教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 368回 授業 ふつうと見なせる子どもたちの指導 

ふつう」の子どもってどんな子か難しいですね。
ここでは、学習意欲だけに限って考えます。


宿題を忘れることはほとんどありません。
先生の説明を聞けば、おおまかなことは理解できる子どもたちです。
集団の半数以上を占めます。


彼らは、授業においては指導しやすい子どもたちです。
指示したことを忠実にこなします。
話し合いに参加することもできます。
目立った意見を言うことも少ないです。
彼らは、集団、周りの友達を一番意識している子どもたちでもあります。
これくらいできたらみんなと同じだからいいかなと思っています。
学級集団の庶民的な存在です。
精神的には安定している子どもが多いです。


自主」を必要とする場面では、周りと似たような意見を言います。
突飛な考えを発表することが少ないです。
集団の中に埋もれて生きている感があります。
そこで、彼らが自分独自の考えをもつことに自信を持たせます。


実践例
子どもたちの考えがいくつかに分かれるだろうと予測される場面。
用紙B5の半分ぐらいの白紙を配ります。
そこに、無記名で自分の考えを書かせます。
無記名ですので、自分を安心して出すことができます。
用紙を回収します。
そのなかで、少数意見、特異な意見を取り上げて、全体の場で誉めます。
このような指導を何回か実施します。


子どもたちは、そんな考えでもいいのかと思います。
彼ら(ふつうの子をそう呼ぶことにします)は、友達と違うことを恐れます。
だから、違う意見をもっていてもあまりだしません。
彼らは、用紙に書かれた考えを聞きながら、自分だって考えたことがあると思います。
首を引っ込めていた亀が頭を出し始めます。


学習において、正答と誤答、「できる」と「できない」の両極にしか基準を置かないと、その中間にある曖昧な自分の考えに自信を持てなくなります。
学習は、今までにもお話ししましたように、○か×の間の考えを出し合うことが楽しいのです。
彼らが自分の特別な考えを出せるように認め、支持していく指導が必要です。


先生方があゆみなどの行動評価を考えるとき、思い出しにくいのは、ふつうの子どもたちです。
明確な特徴をだしていないからです。
さらに、彼らは、生活面においても問題行動を起こすことが少ないです。
目立たないのです。
周りを意識して庶民として学級において生活しているからです。


授業において、個々の子どもたちの考えを取り上げるようにします。
ありきたりの意見を子どもが発表したとします。
先生は「それは、あなたが一番伝えたい考えですか」
「2番目にあげるとしたらどんな考えがあるかな」
というように、自分の考えが決して一つではないことを意識させます。
そして、その子に伝えます。
「2番目のあなたの考えのほうがおもしろいですね。」
と支持して全体の場に取り上げます。
何度も言いますが、彼らは、いくつかの考えが浮かんでも、発表するのは周囲から突出しない考えを発表します。
ある意味では、よい子の意見、優等生的な意見です。



彼らへの指導で効果的なことは
協同場面で「自分の考えが役に立った」という実感を持たせることです。
本当の自分の考えを語らせること、それを支持することです。
一見、指導の手があまりかからない子どもたちのように見えますが、そうではないのです。
私が自宅にもどって、その日の子どもたちを順番に思い出すとき(その子とどのように関わったか)、どうしても思い出せないのが彼らなのです。


ちなみに、毎日、その日の子どもを自宅に戻ってから、一人一人の子どもを思い出すようにしてきました。
具体的には、名簿を前にして、その子との思い出をたどります。
その子と交わした言葉、共に行動したこと、授業場面での表情、まなざしなどで記憶に残っていることをメモします。
そうしていくと、何人かは、思い出せない子ども、記憶に薄い子どもがでてきます。
次の日は、記憶に残らなかった子どもを優先的に関わるようにします。

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