教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 340回 集団学習  助力 と 依存性

明治以前は、寺子屋を中心とした個別指導が中心でした。
ところが、明治になって、国家の近代化を目標とするにあたり、できるだけ多くの国民に知識や考え方を入れていく必要性に迫られました。
そこで、効率性を重視した制度がつくられました。
集団における学習の効率性でした。
集団主義教育の思想も外国から入ってきました。
しかし、個性教育、学習の個別化という考えのもとに、集団教育が疎まれる時期もありました。


今の教育には、その背景に哲学や思想が薄くなってきたように思います。
社会を担う人間を見据えた教育、指導の在り方、それを実践するための授業の構築というようなことが問われなければならないと考えています。
どのような子どもたちを日本の未来に送り込むのでしょうか。
子どもたちの成長にしたがって自立、自律させていくにはどのようにすればよいのでしょうか。


集団学習の利点は「助力」と「補助」にあると思います。
助力は、「助け合う」です。補助は「補ってあげる」です。
これらのことは、学習場面で育てていくようにします。
指導ではなく、ゆっくりと子どもたちの様子を見守りながら育てます。


学習の場面では、わからない友達がいると教えてあげなさいという指示が出されます。そこで、わかっている子どもが分かっていない子どもに教えます。教えている子どもは得意げですが、教えられる子どもは、少し申し訳なさそうな表情をします。
これは、助け合うとはいいません。


助け合うとは、相互交流であり、どちらの子どもにも自信が生まれるものです。
算数などで教え合う場面をみていると、教える側の論理でわからない友達を説得しようとしています。わからない子どもも仕方なく「うんうん」とうなづいています。


わからない子どもがどんなことがわからないのか、どこまでわかっているのかを確かめるような質問をしながら、ヒントを出しながら教えていきます。
教える子どもは、相手の立場にたって算数のわからなさを考えていく、思いやっていくことが要求されます。
そして、わからない子どもは、自信をもって「まだ、よくわからないなあ」とか「すっきりしないなあ」とか「こういうことかな」など、自信をもって言えるようにします。


教えられる子は、結果的にはわかるわけですから助けてもらえたことになります。
それでは、教えた側の子どもはどうでしょうか。
教えることの難しさ、相手の考え方を思いやることの難しさに気づくようになります。
あるいは、わかっていたつもりのことが曖昧になり、教えているうちに自分の理解がはっきりとすることもあります。
どちらの子どもにも利点があることに気づけるようになればおもしろいですね。


実践例としては、最初は、子ども同士で教え合わせないようにします。
先生が黒板の前で、わからない子どもを相手にヒントをだしながら、相手の子どもの考えを探りながら教えます。ヒントの出し方、相手の理解の仕方に合わせた教え方を見ている子どもたちに伝えます。


やがて、黒板の前には、先生の代わりの子どもたちが登場して実際に友達に教えます。そして、終わったあと、わかったかどうか、すっきりしたかどうかを尋ねます。
わからない子どもは、納得するまで「わかった」とは言わないことを約束させます。
そうすると、一番目の子どもに代わって二番目の子ども…三番目・・というように交代します。教室は和やかに空気に包まれるようになります。
わからない子どものほうが王様待遇になるからです。
助け合うとは、助け合ったことでお互いにメリットがあり明るくなることです。


しかし、助け合うという利点は、「依存性」という副作用もうみだすことを承知しておかなければなりません。わからなくても、だれかが助けてくれるという依存心が生まれ、自分で考えようとしない子どもがあらわれます。
そのためには、自分で考えることと助けてもらわなければならないことを明確にさせます。これは、先生の指導が必要ですね。
「ちょっと待って、わからないというのではなく、どこがわからない、どこまでわかるのかを考えてから助けてもらうようにしましょう」という助言をします。


やがて、自力解決を中心に授業を組み立てていくと、「すぐに助け合わない」という暗黙のルールができるようにします。
まず、自分でわからないことが浮かび上がってくるまで考える習慣をつくります。


自力解決とは、解決することではなく、独りでわからなさを発見する、学びの入り口を見つけることです。
そのあとで、助け合う活動が必要になることに気づかせるようにします。

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