教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 337回 老いるキンセンカ 命をつなぐ

理科の教材で植物の栽培内容がでています。
種をまいて子どもたちが育てる学習です。
教科書や地域によって栽培植物はことなりますが、次のようなものがあげられています。


ヒマワリ ホウセンカ オクラ ダイズ マリーゴールド…3年生
ツルレイシ ヘチマ ヒョウタン…4年生
インゲンマメ  トウモロコシ  ジヤガイモ…5年生
ホウセンカ  ジヤガイモ…6年生
低学年では、アサガオなども栽培します。



今年は、コロナで休校期間が長かったところもありますので、栽培計画の修正を余儀なくされます。ただし、6月、5月後半に再開された学校でも、種まきは十分にまにあいます。日陰ですずしいところであれば一週間から10日ぐらいで発芽します。


実際に命を育てること、そして、科学的な視点で植物の発芽や成長、結実などを観察することには大きな意味があります。



しかし、実際のところ、種まき、茎の成長、開花までは先生も子どもたちも意欲的に、観察植物の前に身を寄せますが、花が枯れると心も体も離れていくことが多いようです。学校の学習園には、植物の無残な姿を目にすることがあります。
観察記録を書かせるための植物栽培になっています。
自然と人間を二元論としてとらえ始めたのは近代科学が始まってからです。



それまでは、自然の一部としての人間、自然に取り囲まれて生きる人間、自然と人間の共生という意識がありました。「コロナウイルスと戦おう」と声高に叫んでいるマスコミがありますが、人間は、ウィルスとともに共存してきた長い歴史があります。
これからもウィルスといかにつき合うか、さらに、私達がいかに自然界の住人であるかを考えざる得なくなりました。



少し栽培と離れているように思われまずが、私が伝えたいことはこのあとにあります。
先日、私が育てたキンセンカ、先月までは咲き誇っていたのですが、今、その花びらを落とし褐色の種を育てています。
私は、この姿をながめているとき、私は、今まで、植物の最期を看取ってきただろうかという疑問を持ちました。
開花するまでは、子どもから成人に達するまでは、注目していた私が、枯れ始めるにしたがって、その植物を眺める時間が少なくなってきたことに気づきました。



キンセンカが花、盛りを終えて子孫を残そうと次世代のために頑張っている姿、少しずつ老いてゆく姿に心が止まりました。
花びらがなくなり始め結実していこうとする姿がいじらしくなってきました。
命を育てるとは、生物の老いを看取ることではないか、ペットなどの動物ならば、家族が最期まで寄り添って悲しみにくれている姿を目にしますが、植物には、それがありません。
最期まで、水を吸い上げ栄養を作り、種に送っている姿があります。
今年は、すべての種を回収しようと思っています。



話を戻しますが、子どもたちも植物とともに成長を楽しむ、共生する世界に導きたいものです。人間の一生と植物の一生は、命の流れとして同じであることに気づかせます。
したがって、花が終わり枯れ始めた時から、命の頂点(子孫を残す、命をつなぐ)がおとずれることを体験を通して理解させたいものです。

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