教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 336回 命の触れ合う 学級とは

学級は三十人の小さな命とそれを見守る大きな一人の命(先生)の触れ合いの場です。
誰もがわかっていることを書くなといわれそうですが、私は、何度も振り返る必要があると思います。
子どもが命であるとはどういうことでしょうか。
それぞれ名前が違って人格、個性をもっていることですか。


具体的に考えてみましょう。
子どもの生育歴が違います。
その違いが性格や考え方、価値観の違いを生みます。
家庭でどのようにして育てられてきたか、保護者との触れ合いもちがってきます。そこには、ぬくもりのある子ども、感情を抑制している子ども、どこが冷たい子ども、周りの事情にどこかさめている子どもがいます。
給食のときも食べる速さ、食べ方、表情、残菜の有無、コミュニケーションの取り方も違います。
清掃活動も家ではほんど片づけをしない子ども、親に言われて仕方なくする子、もともときれい好きな子によって、掃除ぶりは違います。
このように、生きる振る舞いの違いが「命」だと考えます。


先生は、子どもたちと学級で触れ合うとき、どのくらい具体的に子どもの命を意識しておられるでしょうか。
さらに、大きな命である先生も、それぞれの子どもたちの命すべてに公平に接しているとはいえません。できないことですから。
建前は、どの子もみんな分け隔てなくといわれますが、先生の命も流動的である以上、どの子にも同じように接することは無理なことです。
無理であることが前提で教育を行います。


未熟な命、先生も子どもも同じ場で触れ合いながら、引き寄せられたり反発しあったり(感情的、感覚的)していくうちに、そこが命の触れ合う場になっていきます。


学級は共生の世界です
喜びも悲しみも共に味わいます。
共生とは、一人の喜びは全体の喜びになり、一人の悲しみは全体の悲しみになることです。
先生は教える立場、子どもは習う、学ぶ立場と全く正反対に見えますが、そこには、お互いに命が通じていなければならないです。


命が通じていると学級は成長します。
若い先生が技術的に未熟であっても、喜びと悲しみを共有しあっている学級は活気があります。先生が子どもを気遣う気持ちは、子どもが先生を思いやる気持ちに通じます。
命の触れ合いは、教室のなかで、生きている喜びと生きていく自信を子どもたちに与えます。


学級崩壊、先生だけが被害者ではありません。
子どもたちも悲しみの淵に沈んでいます。
子ども一人ひとりを命としてとらえることは、日々、生活のなかで忘れがちになります。具体的な子どもとして、飛び跳ねている子どもとして、うごめいている子どもとして触れ合うことが大切だと思います。


もちろん、これは、具体的にすべてできることではありません。
だからといって無視することでもありません。
先生は、子どもを理屈だけでとらえるのではなく、その先生が本来的に持っておられる人間としての感性を大切にされたらと思っています。


これは、私の反省文でもあります。

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