教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 311回 教育効果 子どもが歩く姿に表れる

教育効果のバロメーターというのは、指示しないでも自然にそのような行動を示していくことを言います。「しなさい」と指示、強制して定着したものは、バロメーターにはなりません。


子どもたちと日々生活していると、ある日を境目に変化することがあるものです。先週までの子どもと今週の子どもとは明らかに雰囲気が違ってきていることがあります。
それが目に見えるものであったり、目に見えないもの、雰囲気、オーラであったりします。先生は、子どもにとって感度のよい受信機であることが大切です。
そういう意味では、毎週の朝会指導の時の一人ひとりの顔を眺めることにしていました。なんとなくでいいです。「何か先週とちがう」と感じたら、その週は、そのように感じる原因を追究します。


先生の大切な能力の一つ、人間を把握する能力は 「直観力」です。
論理的なものが最初にくると、この自分の直感したものを隅に追いやってしまいます。フィルターがかかります。


例(1)廊下歩行に細かい配慮が見られるようになる。
子どもは廊下を走ります。友だちと話していて周りの動きに目もくれないことがあります。そのような子どもたちが、廊下の端を歩くようになり、曲がり角では、角の向こうの目に入らない歩行者を意識します。
階段のおり方も同じで、落ち着いておりる子どもが現れます。
休憩時間にさりげなく廊下の様子を観察します。
子どもが自分以外のものに配慮し始めるからです。(共同社会の一員としての自覚)
余談ですが、廊下を歩いている子どもたちの姿を眺めていると、2学期ぐらいになると、学級によって子どもたちの歩く姿が違ってきます。その姿を見るだけで学級がわかるようになってきます。生きる姿、意欲、エネルギーは、歩く姿に現れるからです。


例(2)器具の扱い方がていねいになる。
給食の食器を戻すときの子どもたちの様子。
最初の時期は、食器を投げるように置く子どもがいます。
ところが、静かに置く子どももいます。配慮できる子どもです。
こうした子どもが増えるようになることです。
清掃道具の扱い方も同じです。


例(3)清掃活動に丁寧さとスピードがでる。
私が学級の変容を確かめるのに、最初バロメーターとしたのは清掃活動です。
多くの学級は清掃指導と称して、清掃の仕方を指示します。
しかし、それは、指示しただけで、一向に清掃の仕方はよくなりません。
すなわち、指示であって、指導(結果として好ましい方向へ導く)にはなっていません。
子どもたちに清掃活動の仕方を教えることは必要です。
清掃班に2,3人は掃除用具を動かさないで活動が停滞している子がいるものです。この子たちが私の重点的な指導対象者になります。
彼らが、自分に自信を取り戻し、仲間の大切さを感じ、生活基盤である学級に愛着を感じてくると、不思議なことに掃除をするようになるのです。
これは、経験的事実です。
だから、授業のなかで仲間意識を育てることが大事になります。


しかし、そうはいっても4月の一か月は随分清掃に時間がかかります。
どうしても子どもたちに口だししてしまいます。
私は、時間のかかる箇所に子どもと一緒に掃除をするようにしました。
やがて「先生と一緒に掃除するとどうして早くなるのだろうか」という疑問が子どもたちの中からでてきます。
私は、こうして、いくつかある清掃区域に入ります。一緒に活動することを通して、清掃の仕方もさりげなく気づかせていきます。
ですから、子どもたちが清掃しないと思われる隅々をていねいに掃いたり拭いたりします。
子どもは、それをじっと見ています。
先生のヘッドシップです。背中で指導します。

×

非ログインユーザーとして返信する