教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 271回 劇指導 その5(最終) 暴走する子どもたち

①誰に向かって話しているのか、話し手であることを明確にする。


 子どもたちは、ほっておくと真横に向いて対話しています。大人の場合は、言葉の表現力があるので問題ないのですが、子どもたちはそうではありません。
 対話をしながら、顔は観客の方に向かせます。ですから、対話の場合は、体を45度に向けて観客からも表情がわかるようにします。
 さらに、グループの場合は、周りに話しかけているのですが、誰が話しているかわかりにくい場合は、話すときに少し前に出て話すようにします。さらに、私が話しかけていますよという身振りをわかるようにさせます。


②舞台に立つ位置を考えながら移動する。


強調したいとき、舞台のぎりぎり前まで出るようにします。
役者が前にでるのと奥に下がるのとでは、観客にとって視野の中に入る割合が違ってくることに気づかせます。
場合によっては、雛壇に下りたり、観客の中に入ります。表現方法の一つとして学ばせます。


③聞いている人の反応を考える。


子どもたちを見ていると、自分のせりふを言ったあと、自分に戻ってしまっています。棒立ちになり、ふだんの表情になっています。
役者は舞台に上がったら、たとえば、カエルの役だとしたら、話していないときもずっとカエルでなければならないですね。演じるということはセリフを言うことだと子供たちは考え違いをしています。
聞いている人は、話し手に対して、かすかな反応、ある時は、アクションを起こしています。
したがって、聞いている時の反応がある子どもは劇の中に入り込んでいます。
聞き手の指導が最も難しいです。
役になりきるとは、話しているときよりも、聞き手として演じている(うなずき、あいづち、つぶやき、後ずさり、前のめりなど)自分を子どもたちが意識することです。



④コミカルな部分を入れて遊ぶ
 これからが子どもたちが自由に発想していけるところです。「観客を笑わせる」場面の設定です
笑いとは、「観客の予想を裏切ること」です。
子どもたちはテレビの影響で、おもしろい恰好をすることで笑わせようとします。
しかし、笑いは「知的なもの」です。
観客の予想を裏切ること、その表情、振る舞いに観客はおもしろさを感じます。
子どもたちがいろいろと試みているうちにわかってきます。


せりふを付け足していきます。
少し、筋からそれることもあります
劇を1本の直線にしないで、曲がりながら折れながら進行していけるようにします。
子どもたちの発想が自由に発揮されるところです。
最初の脚本が発酵、熟成してくると子どもたちは暴走し始めます。
対話の中で自分なりの言葉に変えたり、新しく言葉を入れたりしていきます。
子供たちにとって楽しい時ですね。
舞台稽古になってからは、毎日のように劇が変化していきます。
発表当日でも変えてくる子どもがいます。


このようにして、劇を完成に導いていきます。
子どもたちが恥ずかしさの壁を乗り越えたら、実際の公演の時に、練習とは違うものを自由に出して楽しむようになります。
すなわち、観客に反応し、観客とつながれるようになるのです。
アドリブが入るようになります。
観客の反応を確かめながら、待ちながら自分の劇を進行していく子どもも現れます。
実は、劇活動をしっかりしておけば、卒業式の呼びかけの練習は、2時間程ですみます
もちろん、授業の話し合いの声の響きが違ってきます。
間合いをとることがうまくなります。
そういう意味では、学期に一回、小さな劇を実施してもよいかもしれません



付け加え


授業においても学級の活動においても、先生の意図、目標をこえていく子どもたちであってほしいと考えて実践してきました。
それが子どもの暴走です。

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