教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 257回 私の師と出会った教育実習 子どもに圧倒された日々

昔のことです。教育実習中、大学4年生の時のことです。
私の教師としての源、出発は、教育実習の師との出会いでした。


私は、市内の小学校に実習にいくことになりました。
指導教官の先生は、40代後半のベテランの先生でした。
私は6年生を担当することになりました。


授業経験は、すでに付属小学校で理科の実験学習の現地指導で何回かありましたが、すべての教科を担当するのは、初めてでした。
最初、担当教官の先生(師)との出会いでした。
そのときのことを今でも鮮明に覚えています。


その先生は言われました。
「あなたは、教育実習で何も学べません。先生になろうとしてはいけません。子どもも教材も見えないのですから、あなたの思うようにしなさい。私からあえて指導することはありません。きっと指導してもわからないと思います。これから先、何年、何十年と子どもたちから学びなさい。」


そのように言われたとき、なんとなく冷たいと感じましたが、要するに、どの教科でも何時間でも授業をしてもよいということでした。大学からは、規定の実習時間が伝えられていましたが、その先生は、その規定に入れない時間をとりなさいということでした。
私は「本当に何時間でも授業をしてもいいのですか。子どもたちが私の下手な授業でだめになりませんか。」と尋ねました。すると、先生は、
「いいですよ。ただし、私の学級の子どもたちにつぶされないように気をつけてください。」と言われました。
私は、なんのことかわかりませんでした。
私が子どもたちからつぶされるとはどういうことかがわからなかったのです。


最初は、私が得意とする理科の授業をしました。
問題解決学習を計画しました。
授業が始まりました。
私は問題を投げかけました。
子どもたちは、ノートに自分の予想、仮説を書き始めました。
そして、話し合いを始めたのです。
私は問題を提示しただけでした。
自動的に子どもたちの学びの活動がは始まったのです。


私が途中で助言をすると、子どもが「先生、もう少しぼくたちだけで話し合わせてください。」と私に訴えました。
私は、そのまま子どもたちの学び、話し合いを聞いていましたが、子どもたちが思考を重ねていく姿に圧倒されて、私の出番はほとんどありませんでした。
これが最初の衝撃でした。
私は授業計画どおり進めようとしたのですが、いとも簡単に跳ね返されてしまいました。


あとで指導の先生に言われました。
「どうでしたか、私が話した意味がわかりましたね。あなたは、子どもが見えていません。当然ですね。だから、いい授業をしようとは考えないことです。この実習期間の間に、子どもに学ぶ力が育つとあなた(指導者)の思いどおりにならないことに気づいてください。」


私は、その日から子どもたちの学びに負けないように教材研究と指導計画をたてる日々が続きました。4週間の実習期間の間に毎日1時間ずつ授業をさせていただきました。
私と一緒に教室に入った実習生は、子どもたちに圧倒されて授業の途中で泣いてしまいました。先生の助言が跳ね返されてしまったのです。


私は、先生(師)の授業をすべて参観することにしました。
子どもたちの鋭い学びと先生の適切な助言、指導に圧倒される毎日でした。
先生は、私の授業を参観されませんでした。
最初は、冷たいと感じていたのですが、事前に見せた指導案を見て、授業の様子を話されました。その後、私の授業は先生の予想どおりに展開されました。
放課後も手取り足取りの指導はありませんでした。
ただ、ひたすら子どもたちから学びなさい。それが始まりですと言われるだけでした。


私の教育実習は、先生としての自信を失うところでしたが、子どもたちに食いついているうちに、授業で子どもが育つことを目の当たりにして、その後、私の師匠として何十年も指導を受けることにしました。
強烈な子どもたちが、先生の鋭い指導力が、今でも私の心の中に強く残っています。

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