教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 255回 「先生、そこがわからない」という子どもを育てる

勉強会にきておられる先生のことです。
先日、校内で研究授業をされました。
算数の直方体、立方体のところです。
日常にある箱の分類をする場面です。


先生がある箱を隠しています。
その箱を3つの質問で子どもたちがあてる場面です。
先生は、子どもたちから3つの質問を受けることになっていました。
ところが、最初から子どもたちは先生の意図する質問がわからなかったのです。どのような質問をすればよいか迷いました。
子どもたちは、すかさず「どんな質問をしたらいいのかわかりません」と言いました。


このあと、先生は、どうされたでしょうか。
「先生がどのように説明したら、みんなはわかるのかな。」と問い返されました。
すると、子どもたちは、「先生だったらどんな質問をするか言ってみてください」と言いました。
そこで、先生は具体的な3つの質問をしました。
すると、子どもたちは「ああ、そういうことか」と納得しました。


最初から具体的な例をあげて説明したらわかりやすかったのでしょう。
しかし、先生は、わざとわかりにくいところから始めたのです。
わかろうとする学びの姿勢を育てたかったようです。
電流の回路に抵抗を入れると(流れにくくすると)発熱します。
学習にも、この抵抗(わかりにくさ)を入れることが大切です。


子どもたちが先生の質問がわからないとき、「どうして、こんな簡単なことがわからないの」という上から目線に話すことがあります。
そうではなく、子どもの元におりていき、子どものわからなさに寄り添っていくようにします。
それがなかなかできないものです。
先生の質問を子どもたちが理解できないとき、ややもすると、聞き手の子どもに問題があるのではと思うことがあります。
どうして、こんな簡単なことがわからないのだと思ってしまいます。
先生が質問の仕方を修正すめばすむのに、先生は、どうしても上から目線で子どもたちを見てしまいます。
それではだめだとわかっているのに、どうしても、見下ろしたような言い方、態度になってしまうことがあります。


「先生、そこがわからない」という子どもを育てます。
そして、そのあと「先生がどんな説明をしたらわかるのかな、教えてください」というようにもっていくと、子どもたちの学びはちがってきます。


もちろん、先生も子どもに一回の説明でわからせることが大切です。
しかし、先生の予想をこえて、子どもたちが理解できなかったことは多々あるものです。
その時に、子どもの元に駆け寄って、先生の説明の不備をたずねられる姿勢が大切だと考えます。


先生は言います。
どんな尋ね方をしたらいいかな。
どこをくわしく話したらいいかな。
どの部分がわからなかったのかな。
先生の話のどこまでならわかるのかな。

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