教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 254回  子どもたちから 対話が消えていく

子どもたちが集まっています。
その話を聞いていると、お互いに意見を求め合っているのではなく、自分の知っている情報を伝えているだけのことが多いです。
現代人のテレビ生活、一方的にコマーシャルの音やいろいろな情報が止めどなく流れてきます。テレビをほとんど一日つけている家もあるらしいです。


その中で、子どもたちは、一方的に聞くだけで会話のない生活に慣れています。
ふつうにしゃべっているように見えても、情報を伝えるだけになって心が伝わっていないことが多いように思います。
私たちも情報のシャワーを浴びて生きています。
子どもたちもすっぽりとその中で生きています。


情報の伝達は、正確に伝えることが要求されます。
したがって、言葉はわかりやすく短いことが要求されます。
子どもたちの発言においても、しどろもどろの発言があると、親も先生も苛立ちを見せて、「もっとはっきり言いなさい」「あなたの話は長くてなにを言っているかわからないわ」という言葉が返ってきます。
しかし、言葉を詰まらせながら話すとき、その子なりに思考しているときです。


ある学校の研修目標に「対話的学び」というのが目的にあがっています。
しかし、子どもたちが授業の中で話しているのを聞くと、自分の考えを一方的に話して「わかるか、わかるやろ」と押しつけています。
わかる、わからないの結果を求めています。
どのようにわかるのか、わからないのかという相手の理解の仕方にはふれていません。
お互いに体を向かい合わせても心は向かい合っていません。
意思の疎通がないのです。


「そうか」「なるほど」「おもしろいねえ」「えっ、そんなこともあるんだ」「しらなかったなあ」などのうなずきがありません。
さらに「今のこと、もう一回言ってみて」「どういうことなの」「あなたが言いたいのはこういうことなの」など聞き返しがありません。


情報伝達は会話ではありません。


会話とは、誤解を恐れずに言葉をやりとりすることです。
相手と一つになろうとする試みです。
心と心を通い合わせることです。


ところが、子どもたちは、相手の言葉を耳にしながら、自分が発する次の言葉を考えています。
聞く時に、自分の心を空にしていません。
私とあなたの関係がないです。
私があなたの心の中に飛び込んでいないのです。
子どもたちのふだんの会話を観察してみてください。
対話なのか 独り言なのか・・・。

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