教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 250回 学級づくりの見直し 支え合うのではなく 支える学級


今までお話したことを三学期に向けてまとめてみます。
支えあうでも支えられるでもない「支える学級」を目指します。
支えるというと、すぐに助け合うとかやさしくしてあげようとかのスローガンがでてきます。
子どもたちに「助け合ってごらん」と指示しても、子どもたちは助けるための力量がありません。ですから、言葉かけの助け合い (大丈夫かあ)とか行動だけの歩み寄りを見せます。


老人に席をゆずる行動が大切なのではなく、そこに至るまでの心の動きが大切です。子どもたちは、席を譲れば親切なことをしたと思っています。
席を譲ることが目的化します。
席を譲りたいという心のやさしさ、気づきが重要なのです。


支えるために必要な力とは「気づき」「共感」です。


心が鈍感なうちは気づくことはできません。
何気ない友達の様子にひっかかりをもつこと。
健康状態
服装の変化
自然の変化
言葉にでない表情を読み取る
共に学級という集団で生活をしているのに、お互いの健康に関心がありません。
欠席児童の理由を全員が把握していません。


今日は顔色が悪いとか、顔が赤いけど熱があるのかなとか、けがをしているけどどうしたのかなと関心を寄せあうことが共同社会です
「今日の服、かっこいいね」とか「似合っているよ」など、あるいは「昨日散髪にいったんだね」などの気づきがほしいです。


さらに、自然の変化に気付く子どもたちであってほしいです。
今の子どもたちは、下ばかりを見ています。
ゲームやスマホに熱中しているからです。
頭をおこして空を見上げる、青空の美しさや雲の動きのおもしろさに興味をもつということが少なくなっています。
スマホやゲームは、子どもたちをいっそう自然から遠ざけてしまいました。


毎日の学級生活の中に今のようなことをお互いに気付きあう場が必要です。
それが朝や終わりの会です。


「健康観察」では、体調がすぐれないときは、自己申告します。「今日は、少し頭が痛いので体育を見学します」と友達に伝えます。
欠席した友達の欠席理由を「先生、A君はどうして休んだのですか」と質問できるようにします。


先生は、子どもたちの身なりや顔色に気を配ります。
昨日と違う子どもの変化、姿を見つけるようにします。
すべては無理ですが、一人でも二人でも見つける努力をしていくうちに、その人数が多くなります。いわゆる先生の観察眼を鍛えていきます。


自然の変化、特に、四季の変化には全員の子どもが気づけるようにしたいものですね。
朝の会のなかで、「冬がやってきた」「そこまで春がやってきた」「もう夏だよ」など、気象変化、動植物、食生活の変化などから見つけられるようにします。
そのためには、先生が朝のお話で、季節を取り上げることです。
先生が朝の会のお話で、必ず、季節感を盛り込むようにします。
「今日、花壇にしもがおりていました。お化粧しているようだったよ」
「冬芽をみつけたよ」
「今日の気温、あてっこしようか」と言って遊びます。
最終的には、寒暖計のメモリを読みます。
そのようなことを続けていると、子どもたちは、体感を通して今の気温を感じるようになります。
人間の感覚は素晴らしいものです。
デシダルの世の中のなかで、アナログ的な感覚を育てることは大切だと考えます。
共感、それは思いやりです。
これがなかなか難しいです。
私自身、思いやることの下手な人間ですから、子どもたちの指導はさらに難しかったです。
共感の指導の一つとして、友達を肯定的にとらえる心を育てるようにします。
批判的な見方からは、共感は生まれません。


友達の良さをとらえるときは、とらえる人間が心を開いて素直になっています。
「友達発見」「友達ばんざい」など、少し大げさですが、そのような場を終わりの会の中に設定するのもおもしろいです。


簡単に支えあいなさいとか助け合いなさいと指示するのではなく、「支える能力」を育てるようにします。


観察眼であり心眼でもあります。

×

非ログインユーザーとして返信する