教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 246回 日常、その非凡に感謝する心を子どもたちに

新しい年を迎えました。
人それぞれどのようにして迎えられたのでしょうか。
外出して、家のこたつで、テレビで、親戚とともに・・・様々ですね。


私は、テレビを一切つけずに、静かにいつもどおりに過ごします。
一年間の日記などを読み返して過ごしました。
自分を振り返る場、時間として(日々そうなのですが)日常として過ごす習慣になっています。


神社仏閣には、多くの人々が訪れて祈ります。
そのときの人々の願いはどんなことでしょうか。
ひろさちやさんが「祈りはほとんど請求書になっている。領収書の祈りでなければならない」というようなことを言われていました。
「未来に対するお願い(請求書の願い)ではなく、今まで生きさせていただいた感謝(領収書の願い)でなければならない」


私の家にも仏壇があります。毎日、線香を立てて手を合わせます。
私などは、「してほしい」という欲ばかりが先行した祈りでありました。
毎朝、仏壇に線香をあげて祈りをするとき「家族を守ってください。愚かな私を導いてください」と未来へのお願いばかりをしていました。
最近では「守ってくださりありがとうございます。導いてくださりありがとうございます」と、領収書の祈りをするようにしています。
どこかで感謝を忘れがちになっています。


感謝、有り難く思う心、有り難さを感じて言葉や行動に表すことです。
得難いものを得させてくれることに感謝ですね。


たとえば、私たちの日常が平凡であること。
平凡でつまらないという方がいますがそうでしょうか。
自然災害が起きれば、今の平凡さはすぐに失われます。
自然災害がおきることが当たり前の世界です。
その中でなにも変わることなく生活できていることが平凡ではなく非凡なことなのかもしれません。私は、日常こそ非凡であって、災害がやってくるのは平凡、あたり前だと思っています。


日常、その非凡に感謝する心を子どもたちに伝えていきたいものです。
「ありがとう」は何回でも誰にでも言えるような子どもであってほしいです。
もちろん、私もその一人になりたいと思っています。
学校の中で、一番「ありがとう」という言葉を発する人が先生であってほしいです。
「ありがとう」という言葉を言われた子どもたちは、自然に感謝の心が育っていきます。
「ありがとう」という感謝の心は、こんな時に表現するのだとわかるようになります。


さらに、自分の身近なもの、親や兄弟、周りの人々、動植物が自分になにを得させてくれているかということを考えさせるようにします。
自分を中心に世界が回っているという価値観を少しでも小さくしていきたいものです。
有ることが難しいという事実をいろいろな具体例を通して、ことあるごとに話してあげることで子どもたちの目は開かれます。


そういう事例は、正月のくらしの中に多くあります。
先生が見聞したりなさったことを子どもたちには話します。
子どもたちは、先生の話を聞いて、自分が正月を過ごした経験を想起し、感謝の気持ちを持つこともあるでしょう。
先生が常に話題を提供することです。
「今日、霜がおりていたね」「昨日の雨で、葉っぱについていた水滴がきれいだったよ」「おもち、どうして丸いのかな」など、いろいろな話題を朝の会の時に提供にします。

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