教育随想 231回 先生 と呼ばれることが恥ずかしい私
子どもが生き生きとして活動していくのは、先生の行動や態度、さらに、先生が成長していこうとする意欲を感じ取っている時ではないでしょうか。
先生が真剣でなくて、どうして、子どもたちが真剣になるのでしょうか。
若い先生が技能的に未熟であっても、その先生のひたむきな姿に子どもたちはついていきます。
逆に、ベテランになると余裕というか、習慣というか、あきらめというか、若い時のような心の張りを失ってしまうと、子どもたちは、どんどん離れていきます。
さらには、口で子どもを動かす教育を実践することになります。
身をもって指導していたことが、いつからか口だけで、言葉の多い指導に変わっていくことがあります。
悲しいかな年齢とともに、このようなことが起きがちになってくるものです。
体が動く前に口が先に走り出します。
あとで、一言、二言、言いすぎたかなと後悔するものです。
先生が、ふだんから学問の世界に足を踏み入れないで、どうして、子どもたちを学習の世界に引き込んでいけるのでしょうか。
やはり、先生は学問に対して興味関心を強くしておかなければならないです。
子どもたちは、先生の学習意欲に刺激されて自分もやってみようと思うものです。
ですから、授業のなかで、わからないことに出あうと「明日まで待ってね」と言って翌日には調べて子どもたちに公開します。
子どもたちは、私たち大人の生き方そのものに寄り添って生きています。
あるいは、私たちの生き方そのものに反発して生きています。
寄り添うことも反発することも、子どもが大人社会、学校社会を意識していることにはかわりありません。
先日、三年目に担任した子どもがおっさんになって訪ねてきました。
彼は、学級の中でパワーのあるけんか早い子どもでした。
私の指示に「そんなことできるか」と言って反発することもありました。
その彼が突然やってきました。
そして、彼は言いました。
「先生、ぼくは先生嫌いだったです。だからよく反発しました。でも、そのあとに、先生の言うことが正しいと納得してしまうから、よけいに腹がたったものです。」
彼の率直な言葉がうれしかったです。
「私は,先生としてわからない、できていない」という自覚、この知らないという真実の上にたって、教育の営みが始まると思っています。
生涯、だめな先生であった私の結論です。
先生という肩書だけで、わからないことも「わかっているよ」という顔をしなければならないこともありました。
実践がうまくいかないことがあっても「これは、環境も子どもも違うからだよ」と、言い訳していたこともありました。
ベテランというレッテルは怖いものです。
何が「熟練」しているのでしょうか。
ベテランという言葉を聞くたびに、後ろめたい気持ちになったこともありました。
先生と呼ばれるたびに、「えっ、私は先生じゃない。そんないいものじゃないよ」
と振り返ったこともありました。
考えてみたら、初任者で教壇にたった瞬間から「先生、せんせい」と呼ばれます。
昨日までは、ただの学生だったのに、一夜のうちに、先生になっていたと思ったものでした。