教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 230回  侮辱、皮肉、ぼやきによる指導

日曜日に散歩していると近くの小学校で少年野球の指導が行われていました。運動場の両側で2つのチームが練習していました。
一つのチームはとても静かな練習でした。コーチの方が怒鳴るような声がなく、ていねいに指導しておられました。


もう一つのチームは、数人のコーチがおられて指導しています。
コーチが投手をして子どもたちに打たせています。
ある一人の子がうまくボールにミートできません。
そばにいるコーチが「おまえ、どこを見てるんや。なんであたらんのや」と強く言葉を投げかけられています。
さらに、ボールを投げているコーチが、子どもがボールをバットにあてられない様子を見て「あたらんのに何を笑っているんや。悔しないのか」と強く叱っておられました。
さらに「なんのためにバットをもっているんや」
「ああ、何回も練習してるのに、むだやなあ」
「ボールのかわりにドッチボールにしようか」
などの皮肉やぼやきがその子どもにあびせられていました。


指導していると、自分の思うとおりにならないとぼやきたくもなるものです。つい、皮肉も口走ります。
思うように指導したいという熱心さが強い言葉に表されることもあります。
自分の指導の限界、これ以上、なすすべがないときについ、ぼやいてしまうことがあります。
それを簡単に責めることはできません。
もちろん、優れた指導者の方はそんなことをあってはならないとおっしゃるでしょう。


子どもが何とかバットに当てようとしている姿を見ると、いくつかの当たらない原因が見えてきます。
そのことを指導者は指摘しません。
子どもの事実を注意深く観察さすると、その対処方法が見えてくることがあります。


ボールを打てないという結果をせめても指導にはなりません。
指導とは、その原因分析と対処です。
それをていねいにアドバイスしていくことが必要です。
ただ、根性論だけで子どもたちを叱責しても何も変わりません。
子どもが打てなくて笑っていることについても、悔しさをごまかすために笑っているようでした。友達の前で叱られるように指導されていることに恥ずかしさもあったようです。泣きたいのをがまんして笑みを鵜我部ていたようにも感じました。
その練習でコーチから発せられた言葉の中で多かったのは、侮辱、ぼやき、皮肉でした。


身をもって指導する、身を寄せて指導するという気持ちがもう少しあっていいかなと感じました。
コーチの指示、命令だけで子どもは育ちません。
指導者の高い識見と指導力が要求されます。
私は、見学していて、そこまで叱らなくてもいいのに、そんなにしかるならもう少し近づいて指導すべきではないかと思いました。


私は、小学校の時、4年間、少年野球をしていました。
そんなに野球にくわしい人間ではありませんが、監督やコーチについては、自分の身をもって体験してきました。
すてきなコーチは、厳しかったです。
しかる厳しさではありません。
失敗したら何度でもチャンスを与えてくださる厳しさでした。
「あなたが納得するまで何回もやってごらん」とつき合ってもらった思い出があります。


少年野球の練習に出会うと、いつも足がとまり、その練習を眺めています。
子どもの頃の思い出がよみがえります。

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