教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 227回  森信三先生に学ぶ その4 眼前の些事からスタートする

「学校の再建にはまず紙屑を拾うことから・・・次には靴箱のくつのかかとが揃うように。新の教育は、こうした眼前の些事からスタートすることを知らねばならぬ。」
(森信三先生)


子どもたちが靴をぬいだあとをまず先生がそろえておきます。「そろえなさい」ではなく、先生自身が率先して行うことが大切です。
ものをそろえるということ、忙しいなかにあって難しいということもあるでしょうが、くつをそろえるというのは、自分自身の過去を振り返ることです。


「眼前の小さなこと」を大切にする姿勢求めています。


最近、私立の小学校の校長先生に呼ばれて学校にお伺いしたことがあります。校長先生は、森信三先生を信奉されている方でした。
その先生が言われたことが印象的でした。
「私は常々気になっていることがあります。公立の学校の先生から入学式や卒業式、その他の学校行事の案内をいただきますが、その案内状が気になっているのです。
どういうことかと言いますと、一枚の案内状が正しく角をそろえて折られていないです。荒っぽいというか、そのようなところに公立の学校の先生の姿勢が伺われるのです。」


私は、なるほどと思いました。
その学校では、低学年のときから、折り紙を丁寧に折る活動を取り入れて折られるということでした。
そこまでするのか?という方もおられますが、こうした姿勢は古くから武道、茶道、華道にも取り入れられている姿勢です。


「同志3名をつくらずしてその学校を去る資格なし」(森信三先生)


先生の実践を理解してくれる、あるいは、ともに目指している仲間の先生を3名ぐらいは育てる必要があるということです。
校内で全くだれからも理解されない実践をしているとき、そこには独善的なにおいがします。
個性的な実践をされる先生ほど、自分の道を突き進むほど、周りがみえなくなることがあります。自分の実践の賛同者がいなくなることがあります。
これは、実践の内容よりも、その先生の独善的な態度を好ましく思っていないのです。どこかで、周りの先生を下に見ている気持ちが同僚に疎まれるようになります。


 「挙手は、行動的な躾の第一である。断固たる決意の表明ともなる。挙手については
①五体の指をそろえる。
②垂直にあげる。
③そして、俊敏に」(森信三先生)


たかが挙手だとおもわれますが、私は、挙手の指導を最初にしました。
挙手する手に自分の気持ちを表しなさい。
最初は、いろいろな気持ちを表した挙手ですが、少しずつ姿勢が前向きになると子どもたちの挙手は変化します。
私の場合は、先に、まっすぐな挙手を強要しないようにしました。
子どもたちが自分の気持ちを挙手の動作にどのような気持ちを表すのかが大切ですね。


指導例
「次の時間、遊びたい人は手をあげなさい。」
このように話しかけて挙手させます。全員挙手です。
1人ずつ、腕の伸ばし方、手のひらのはりなどを見ながら
「あなたは、手のひらに遊びたくてたまらないという気持ちがいっぱい表れているね。」「あなたは、少し元気がないけど、遊び大変という気持ちが小さいのかな」などと、挙手に表わされている気持ちを代弁していきます。


 体を通して、気持ちを表現します。
 姿あっても姿勢がない子どももいます。
 姿勢には勢いがありますね。

×

非ログインユーザーとして返信する