教育随想 228回 森信三先生に学ぶ 最終回
森信三先生は、私を初任者の時から指導してくださっていた先生(師匠)の流れをくむ方でした。師匠は厳しい先生でしたが、教えの根底には森先生の考え方がながれていました。それで森信三先生の言葉を取り上げてみました。
教育は時代とともに変化する部分も多くありますが、時代に動かされない真髄もあります。
先生の言葉は、私にとっては手厳しい叱責となって跳ね返ってきます。
自分の惨めさ、情けなさ、力不足を感じるばかりです。
教育は、自分の人生を生きることです。
自分の人生から離れてあるものではないと思います。
どんなに人生のどん底にあっても、自分をどう教育するかということから立ち上がっていくしかありません。
死ぬまで教育の道は終わらないですね。
子どもたちから離れても生涯,教育の道を歩いています。
自己教育ですね。
「教師が授業をすんだあと、自分の書いた板書の文字一つ拭けない程度で、新の教育ができるだろうか。」(森信三先生)
黒板に書いた文字。大概は日直の子どもにふかせていないでしょうか。
それが悪いとは思っていません。
教室それぞれ、先生それぞれの考え方があるはずです。
私は、少しばかり違います。
新任の時から、忙しい時は仕方ないとして自分の手で消すようにしてきました。
最初にそう思ったのは、子どもたちが消した後の黒板が汚いことでした。
そのうえに私が文字を書くことに抵抗を感じました。
子どもたちは、黒板に書かれた文字を見ながら考えています。それなのに、こんなにきたない(白っぽい)黒板でいいのだろうかという疑問がありました。
黒板って何だろうかと考えました。
野球は整備の生き届いたグランドでプレーをします。練習後は、ブラシをかけて整えておきます。テニスもしかりですね。
黒板は、先生や子どもたちにとって学習の広場、グラウンドです。
いつも気持ちのよいすっきりした広場にしたいと思いました。
そこで、私は、子どもたちに私がふくので、黒板をふかないように指示しました。
前学年まで、日直の仕事として当たり前のようにふいてきた子どもたちは不思議がりました。
授業のあと、5分間ぐらいかけてしっかりとふきます。
どうしたら白さが残らないかを工夫しました。
縦にふく。そして、横にふく。
その時に黒板ふきを少し立てて、角を使うようにします。角でふきます。
こうすることで、かなり美しくなります。
この様子を子どもたちはじっと見ています。
美しい黒板を目にしみ込ませます。
学習の場としての黒板、だから大切にするという意識を伝えていきます。
ただし、言葉ではありません。
ただ、黙ってふくだけです。
やがて、2週間ぐらいたつと「先生、ぼくもふいてもいいですか」と話しかけてきます。私は「ありがとう、私がふくからいいよ。外であそんでいらっしゃい」と断ります。
簡単にさせてはいけません。
これは、すべての活動にいえることですが、子どもが「してみたい」といったとき、「えらいねえ」と言ってすぐにさせてはいけません。
させてしまうと三日間も続きません。
子どもを欲求不満にさせる必要があります。
「したくてたまらない」という気持ちが高まるまでさせてはいけないのです。
だから、2週間も3週間も先生が実行します。
子どもたちは、先生の黒板のふきかたを先生の背中を見て覚えていきます。
)つけとは、体から体に入れていくものです。
子どもたちにほとんどふかせることはありませんでした。私が、どうしても黒板をふくことができない時だけ子どもたちに任せました。
実にていねいにふき上げていました。
それについては、ほめないようにします。当たり前のことですから。
この例でわかるように、言葉で教えたものは子どもから言葉で返ってきます。
先生自身の振る舞いを通して語りかける姿勢を大切にしてきたつもりです。
最後に森信三先生の言葉で締めくくります。
「教育とは、人生の生き方のタネまきをすることなり。」(森信三先生)