教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 222回  かけこみ授業

学期末になると多くの学校にみられる風景です。
「もう時間がないから、この場面はとばしましょう」
「ここは、2時間分の学習を1時間でしましょう」
終業式までには、教科進度がどんなに遅れていても、きちんと終わっています。終わらせています、この不思議な現象。


教材内容を簡単に割愛してもいいのでしょうか。
その教材を楽しみにしている子どもから見ると、おもしろくありませんね。
先生の都合でつじつまを合わせるような授業がいとも簡単に行われています。


先日も来られた先生が、道徳があと2週間しかないのに4単元残っているとのこと。学年で、ある単元をぬきましようということでした。
その先生がどうして抜くのかと尋ねたら、世話係は、たいしたことはないからという理由でした。先生の判断で、価値観で単元がとばされたそうです。
それでは、最初に立てた年間計画は何だったのでしょうか。
学年末には、とばした教材を明記して次の担任に引き継いでいるのでしょうか。
年間計画を修正しているのでしょうか。


算数もある先生は2週間もおくれていたのに「やっとみんなに追いついた」と言葉を漏らされたようです。
どのようにして追いついたのでしょうか。
一日算数を2時間実施したということでしょうか。
それとも、内容を簡略化したということでしょうか。
すべて、先生サイドの都合ですね。


算数の嫌いな子どもが一日に2時間の勉強は地獄ですね。
そこに、学習意欲が生まれることはありません。
しかしながら、どうしても予定したとおりにならないこともあります。
だから、絶対にだめなんて言えないところがあります。


一年の最初、学期ごとの最初に教科進度と内容の計画をたてているはずです。いきあたりばったりの進め方といえば、言い過ぎでしょうか。
その計画が学習内容にかかわりをもって計画される必要があります。
重点単元とそうでない単元が出てきます。
したがって、進度が標準に比べて遅くなることがあります。


私の場合は、教科内容によって、前もって標準進度よりもゆっくり学習することもありました。
学期末2週間は、復習と称してプリント、自習を多くしないようにしました。子どもにとっておもしろくないからです。
全員で学びあえる時間を少なくとも一日1時間は確保したいと思っていました。
ですから、終業式の前日まで、授業をしました。
卒業式の前日も授業をします。
特に、国語の読みの学習はゆっくりと進めました。
もちろん、子どもたちが読みとりの学習を楽しみにしている場合のことですが・・・。

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