教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 220回 授業とは、問いかけて一歩踏み込むように導くこと

以前にも正答を求める授業が多いとお話したことがあります。
子どもたちは必死に、先生の求める正答に近づこうとしています。


特に、気になるのは、先生のやらせとしての質問、助言です。
先生が子どもたちに言ってほしいこと、先生の求める答えを子どもたちに求めるための質問、助言です。


先生が子どもたちに正解を求めることがすべてよくないというのではありません。正解を求めていかないと、学習は前に進みません。(進まなくても学習ですが)
しかし、それは、子どもの学びではなく先生の教える手順です。


先生が指導案で書かれた学習過程、いや指導過程の上に子どもたちを一人一人乗せていくことです。
子どもたちは、先生に提示された指導過程というベルトコンベアーの上から落ちないようにがんばります。
授業開始の時の子どもたちの姿勢と終了時の姿勢を比べてみてください。
張り切っていた子どもたちの姿勢が終わりになるほど、背中が丸くなり、机の下の足が安定しなくなっています。
意欲の減退が子どもたちの姿勢からわかります。


さて、子どもたちの基礎学力、計算漢字などいろいろ言われていますが、子どもたちが生涯、役立つ、必要な学力は何でしょうか。
独断で申し訳ありませんが、それは「問いをもつ、発する」ことだと考えてきました。
物事を体験したり学習したりするなかで、自分の中で「なぜだろう」「どういうことだろう」「もし、こうすればどうなるのだろう」というように、自分の中で問いかけができることだと思います。
さらに言うなれば、「問かけて一歩踏み込めること」です。
死を迎えるまで「問い」を発している私でありたいと思います。


子どもたちは学習している内容の本質を追究するというよりは、先生の表情を眺めて答えを得ようとしていることがあります。
試しに、子どもが発言したあと、子どもがどこを見ているかに注意してください。
子どもは先生の顔色を見て、自分の意見の正否を確かめています。


子どもたちが自分なりに学んでいる内容に問いかけていくと、先生の指導過程から離脱することがあります。それだけの勇気をもつ子どもは少ないです。


時々、先生は学習の中で「ここはテストに出すから大切だよ」と言うことがありますが、子どもたちは学びの内容に関心をもつのではなく、テストに出題されるかどうかによって学習を進めます。
まあ、これもだめだとは思いません。どうしても覚えなければならないことは、そのようにすることもあるものです。
しかし、それは学びの一部であって全体ではありません。


子どもたちが教材に向かったとき、自分でその学習内容に全力でぶつかり、自分で問いを発して課題を見つけられるようにすることが大切です。
ある時に企業の方のお話をお聞きした時に、大学を卒業して会社に勤めても、指示したことはするけれど、自分で問いかけて仕事に向き合っている人は少ないと言われていたことがあります。
たいがいの場合は、「次は何をしたらいいのですか」という質問が多く、自分で問いを発して考えることが少ないということでした。


問いを発するのは先生ではなく子どもです。
子どもが「問いを発することができるような指導過程を考えていくことが授業者の役割です。「教える」のではなく「引き出す」という意識で子どもたちと関わります。
私は、そのことを子どもたちに「こだわる」「ひっかかる」というキーワードを使って指導してきました。
正解がでても「これでいいかな、他には?」と考える姿勢。
なにげなく見たり読んだりしたことの中に「あれ、どうしてかな」「どういうことだろう」「待てよ 待てよ・・・」とひっかかることです。


先生が教えたとしても、「納得がいかないこと、すっきりしないことはないですか」という質問が必要です。
正解が一つではない授業が学びを育てることになります。


私は、生涯を生きていくなかで「自分の内に問いをもつ」ということがいかに大切なのかをしみじみ感じている毎日です。
ちなみに、「問いをもつ」ということは「好奇心をもつ」ことにもつながります。


私の話は、繰り返しが多々でてくると思いますが、重要なものは、言葉を変えながら、例を変えながらでもお伝えします。重複をお許しください。

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