教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 209回 話す・聞く 指導  さわやかに  ごめんね  ありがとう

 さわやかにごめんね   質問に答えてくれたら ありがとう


 この2つの内容は、コミユニーケーションにおいて、最も大切なことかもしれません。話し合いが無機質なものに終始するか、それとも、ぬくもりがあり、お互いに気配りしあえるものになるかの分かれ道です。


「ごめんなさい」は「御免」の丁寧語で、こちらがしてしまった過ちを許してほしいという意味合いがあります。相手に許すという行為を求めます。



言い間違うとき、途中で言葉を失ったときや、説明不足で相手にうまくつたえられなかったときなど、「ごめんね」という話し手の一言が、聞き手の気持ちをやわらげ話し手を認めることになります。
 「ごめんね、うまく説明できないけど・・・」
 「ごめん、言葉がわからなくなってしまった・・・」
 「ごめんね、もう一度言い直すね」など
 子どもたちは、自分のいたらなさを自ら認めることで、お互いを許し合う雰囲気を作り出します。これが支持的風土を基礎においた学級集団です。


さらに、わからないことを質問したら、友達がすぐに答えてくれるたとき、「ありがとう」という聞き手の感謝の気持ちを表すことで、友だち間の親密度を増していきます。
日常生活で「ごめんね」「ありがとう」が気軽に言い合えるところにこの指導の良さがあります。


学習においては、相手が責められることはありません。わからなくなることも言い
間違えることも、だれもが経験するからです。
「間違える」「わからない」ということは、分かり合う過程において必ず越えなければならない壁です。その壁を学級生活、学習の核にすることで、支え合い安心できる学級集団が形成されます。


 学級づくりは仲間づくりです。
その要は「ごめんね」「ありがとう」の多用です。
そして、先生が学級の子どもたちの中で、一番多用する人でなければなりません。


子どもたちが話し合いをしている時、先生は「ごめんね、ちょっと話の中に入っていいかな」と言って参加します。
子どもたちの話の中に入るというのは、先生であっても簡単に許されることではありません。子どもたちの話し合いを遮ることになります。


うまく子どもたちに説明、説得、納得させられないとき、「ごめんね、わかりにくそうだ。言い直すよ」という「ごめんね」が子どもたちにとって、理解できないのは、自分たちが悪いのではなく、先生の説明の仕方にも原因があったのだと理解することで、「認めて言い直す」ことの大切さを学びます。そのことで、子どもたちが先生から離れることはありません。


日常生活の「ごめんなさい・ありがとう」と授業の中での「ごめんね・ありがとう」とは違います。
日常生活の場合は、お互いの人間性にかかわることがでてきます。
恨みをかうこともあります。
相手をひどく傷つける場合もあります。
その中での「ごめんなさい」です。


しかし、学習においては、話すことでつまずいてもだれも傷を受けません。
だれもが失敗することです。
特定の子どもだけにおこるものではありません。
 「ごめんなさい」とさわやかに伝え合うことで、だれも傷をつけるようなことはありません。
 自信をもって間違えることができ、教えてもらったら「ありがとう」とお礼を言えばいいのです。


くどいようですが、「ごめんね」「ありがとう」が一日で子どもたちの中に何回でているかを調べてみてください。先生も何回「ごめんね」「ありがとう」を言っているかを見なおしてください。


 「ごめんね」「ありがとう」は、生の感情のふれあいです。
目に見えないもので、子どもたちがつながりあえるようになってきます。
自分の行動を振り返る「ごめんね」、感謝の気持ちを伝える「ありがとう」。

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