教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想188回  授業は わかりやすさよりも わかりにくさを意図的に

勉強会での話です。
学年のある先生が研修として全体授業を実施されるとのことです。
その授業の予行演習を同じ学年の別のクラスですることになりました。


4年生の算数で、「式のきまり」の学習です。
計算の約束を知って一つの式にまとめる学習です。
24個の〇が正方形の形に並べられています。
これを一つの式を使って答えを求める問題です。
一つの式をいくつつくることができるかという問題です。


この場面は、子どもたちがいろいろな考えをだしてくるだろうから、研究授業の場面に選ばれたようです。
その授業の指導案を作成し、自分の担任外のクラスで実際にしたいということで先日実施されました。


子どもたちは、自由にいろいろな考えをだしてきたようです。
このあと先生が、わかりやすくはやく求められる式はどれかという質問をされました。
子どもたちの考えた式を先生の判断「わかりやすく、はやく」という観点で振り分けられたようです。
子どもの考えを前にしながら、先生の一方的な判断で、その式の是非が選別されました。


その授業のあとの反省会では、先生の質問や発問が適当であったか、もっと流れをよくするにはどうしたらいいのかということが話し合われました。


さて、私は、この話をお聞きして疑問を持ちました。


なぜ、自分の学級で授業する指導案を自分以外の他の教室で実施するのかということです。
もう一つは「わかりやすく」は良いとしても、「はやく」答えを求めることが適切なことでしょうか。
確かに、教材の提示、流し方、発問や質問の是非はある程度、修正できるでしょう。
しかし、現実に授業する場は自分の教室です。
自分の教室の子どもの実態に応じて指導案を作成することが大切です。
その先生のたてられた指導案をみせていただきましたが、そこには、一般的な概念的な子どもは描かれていますが、実際の自分の学級の子どもたちの姿がありません。
どの教室でもできる指導案でした。


子どもの実態に即した、最初に子どもありきの指導を考えることが研究です。
よく研究会の指導案を見せていただくと、教材をいかに理解させるかという指導過程はあっても、子どもたちがその教材をどのように認識していくかということは問題にあがっていません。
教える効率を優先した指導案です。


指導案をたてるとき、具体的な子どもの姿、教室の子どもたちの姿を想定します。
教材のどの入り口から入ってくるか。
どこがわかり、どこでつまずくか。
どこに興味関心を強く持つか。
自分たちの力で学べるところと先生の援助がいるところはどこか。
この指導案ではだれが活躍し、誰を置き去りにするかを想定します。


前の研究会の指導案は、どこの学校でもできるような指導書的な指導案です。
先生サイドの一方的な指導の流れです。


指導案は、まず、目の前の子どもから出発します。
子どもたちがいろいろな一つの式をだした時に、どうして、先生が自分の基準で選択するのでしょうか。
その基準に「わかりやすい、はやい」という基準が妥当なのでしょうか。


子どもたちは、子どもたちなりに考えたものは、その子にとってわかりやすいものです。(周りからわかりにくいことも)
そして、計算がはやくできることが必要なのでしょうか。
大切なことは、いかに考えたか、一人一人の子どもたちの思考の道筋です。


その授業の話し合いには、子どもたちの学びの流れをよくしようとする視点が際だっていたようです。
しかし、指導とは、子どもたちに電気抵抗、抵抗を入れることで、子どもの学びを渋滞させ、わかりにくくさせ、そこから子どもたちの意欲、理解を育てることが必要なのです。
抵抗(わかりにくさ)のない授業は、電気抵抗がないように、子どもたちの熱も光もでてこないですね。
 その先生は来週には本番の?  授業をされるそうです。
 えっ? 今日の授業は本番では なかったのですか。


ちなみに、2学期の今頃にかると、クラスによって子どもたちの学び方、学習意欲に差がてきています。
だから、級外での授業は、あまり参考にはなりません。

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