教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 159回  日記指導 子どもは本当のことを書かない


私は、毎年欠かさずに子どもたちに日記を書かせてきました。
始めた頃は、子どもたちの気持ちを知りたいという単純な気持ちからでした。
今の学級や友達についてどのようなことを感じているのかを知りたいと思っていました。
やがて、書くことは自分を見つめること、深めることという立場から指導するようになってきました。


子どもの本当の気持ちは日記ではわかりません。
なぜなら、子どもたちは、先生に認めてもらうために、いいことしか書きません。題材を都合のよいように選択しています。
先生が読む限り、子どもたちは先生を意識して書くのは仕方がありません。
「おもしろかった」「たのしかった」「よかったよ」で締めくくる日記に終始していました。


書くことで、自分の心を裏切ることもできます。
真反対のことも書くことができますね。
どんなことを日記に書いたら先生は喜ぶか、こんなことを書いたらいやがられるかということを忖度しながら書いています。
人間の心は一色ではありません。 いろいろな色が混じり合っています。
「好きだ」と言っても「嫌い」というところもあり、「嫌いだ」と言っても「好き」というところもあります。


子どもは、初期において、親が求めるような期待する子どもになろうと努力します。そのようになれないことがわかると、やがて、諦めて自分の道を進むようになります。親はそれを「反抗期」と呼んでいますが、子どもからすると「自立期」です。


日記を書くことが、子どもたちの自立していく過程でなければならないと考えました。
それは、自分の考えを刻み、心を掘り下げることが書くことの目的です。しかし、自分の内だけではなく、自分の外の世界を鋭く見つめるまなざしを養うものでなければならないとも考えました。


新学期、子どもたちは、先生受けすることを書きます。
「先生が担任になってよかったです」と、お世辞を書いてきます。
担任は、それを読んで喜んではいけません。
お世辞であって真意ではありません。
だれが、日記に「先生が担任になってシヨックを受けています」と書くでしょうか。
そのような子どもは、すばらしい子です。
神様が送り出してくれた子どもですね。
もし、そのような子どもたちがいたら、先生はより大切にしなければなりません。


良いことばかりを書きます。
先生は、それを否定せずに、全部受けてたちます。
「それはよかったね」「そうなんだ、すごいねえ」「先生もうれしいなあ」というように歩調をあわせます。
子どもの指導で大切なことは、子どもの発言や思いを最初から否定しないことです。
まず、受け止めます。
子どもたちの思いを吸い込みます。
吸い込むとは、子どもの思いに共振することです。


やがて、先生と子どもとの親密度や安心感が増してくると、自分のマイナスを書くようになります。「らんぼうな言葉で○○くんをきずつけてしまった」「あれはうそをついていたよ」「先生、お母さんのさいふからお金をとってしまった。どうしたらいい?」というようなことが書かれます。


子どもが自分のマイナスも書くようになったら自立の兆しがあります。
先生は、子どもの日記に好意的な所感を書きます。「すごいなあ、そこまで自分に正直になれるなんて」「よく話してくれたね。立派だよ。あなたは、もう反省しているんだよ」と、否定することなく、自分の負の行動を見つめたことを誉めます。


これは実際にあったことですが、ある学級崩壊のあとを担任したとき、学級の2/3の子どもたちが過去の万引きについて書き始めました。
書き始めたのは6月に入ったころでした。
私自身さすがに驚いたものです。同時に、その子どもたちの思いを受け止めなければならない責任の重さを感じました。
もちろん、子どもたちが書いた内容については一切ふれませんでした。
「心の便所」ですから、流したらおしまいです。


日記は、子どもたちの負の部分が書かれているので、自宅に持ち帰らないで、私の本棚に保管するようにしました。家にもって帰ると、親が読むことがあり、そのことで、子どもたちがしかられることがあります。子どものプライバシーを守る必要があります。
このような日記を学級通信にあげられますか、無理ですね。
だから、学級通信は、子どもたちの日があたっている部分の発信であって日陰の部分は発信できません。
万引きの件を多く書くようになったときは、日記を私の机の中に保管しました。不用意に教卓の上に置かないようにしました。


このように、子どもたちの本音がちらほら書かれるようになると、読む側の私も緊張しました。
その子の未来に関わることですから、簡単に価値判断をせずに受け止めて、その子自身が自らの力で気づけるように援助します。
自分を修正するのは自分自身ですね。

×

非ログインユーザーとして返信する