教育随想 139回 授業は 子どもと仲良くなることが前提
本来、学校の仕事は二つあると考えます。
一つは、教科、教材を直接教え、習わせるとこ、知識系統に主眼をおきます。
二つめは、教科、教材を利用して人間のあり方、姿勢を学ばせることに主眼をおきます。(中距離目標)
そして、それらを底辺で支えるものが、先生と子どもとの人間関係の円滑さです。
したがって、教科、教材、そして、授業を通して先生と子どもたちがお互いに心を通わせ、尊敬しあうつながりが必要なのです。
以前にお話しましたように、授業で子どもたちと仲良くなることです。
教材を真ん中において、先生と子どもたちがお互いの思いをぶつけ合えるようにします。
先生が生活の中の話題を間にはさんで、子どもと意気投合することはあります。
野球などのスポーツの話、芸能ニュースなどは、特定の子どもたちと盛り上がることはあります。しかし、それは、興味関心を共有できる無子どもたちとの間に限られます。
ところが、教材を真中に介在させることで、どの子とも関係をもつことができます。
教材を提示して、子どもと先生は考えを交流できます。
「先生、それは違うのでは」「先生、こんな考えもあるよ」「先生の話で納得しました」「先生、もう少しくわしく話してください」「先生、ようわからんわ」などの言葉が飛び交う授業を目指します。
子どもたちも本気にわかりたいという気持ちが増幅され、先生も、本気で子どもたちから学ぶという姿勢が必要になってきます。
教材を介して、学び合う、教え合うというつながりが生まれるようにします。
先生の姿勢において、「教える」という気持ちが強くなると、子どもの前で自分が間違っても正直に認めることなくごまかそうとしてしまいます。これは、先生として、まったくないとはいえません。先生の威厳を保ちたいという気持ちがそのようにさせてしまいます。
先生の威厳とは何か、何でも知っていることではないですね。むしろ、子どもよりも知らない事が多くあるはずです。
先生が子どもから学ぶという姿勢を自分自身で養います。
「ごめん、教えてくれるかな」「うまくみんなに教えられないね、みんなだったらどのように説明するかな」「これについて、もっとくわしく知っている人はいないかな」「教えてくれてありがとう」
先生が子どもたちよりも姿勢を低くすることで、高いところから低いところに水が流れるように、子どもたちの意見が先生に流れてきます。
初任者のとき、こんなことがありました。
自分の考えた指導案が始めから行き詰ってしまったときのことです。
その時は保護者参観でした。
国語の詩の授業でした。
子どもたちの詩に対する解釈が予測できなかったのです。
私とは全く反対の考えをだしてきました。
私は、あわてました。
子どもたちの考えを変容させる手段を見失いました。
そこで、参観日であったのですが、子どもたちに「ごめん、わからなくなったので少し時間をもらっていいかな」と言って、5分間ほど対策を考えたことがあります。
保護者や子どもたちには頼りない先生だと思われるだろうと思いましたが、本当にわからなくなったので中断しました。
あとで、そのことが子どもたちにとってよかったようでした。どのようなは場においても「わからない」といえる勇気が必要であるという印象をもったようでした。
もちろん、先生としては、教材研究の準備不足なので授業者としては失格でした。
今も心に残る失敗でした。