教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 138回 ひっかかりと迷いの能力

子どもたちは、わかるということを「先生によって」もたらされるもの、教えられるものと考えています。教えてもらうことで理解できるものとして考えています。
学習が依存的になっています。


学びは、一人ひとりが自分で考えて達成すべきものとして考えていません。
「先生、やり方を教えてください」「先生が教えてくれなかったらわからないのです」という子どもの言葉が返ってきます。


世の中では、塾やおけいこごとがさかんです。
その場合の勉強は、誰かに教えてもらうことであって、自分で考えたり探究したりすることではないと考えていることが多いように思います。
ネット検索の使い方もおなじことが言えます。
問いに対してすぐに答えを求めます。
ネット検索は、日常生活では便利なものですが、探究するためのネット検索ではないですね。いきなりステーキ、いや、いきなりネットですね。
ネット検索する前に、自分なりの疑問、予想や仮説を持つ必要があります。
思考抜きのいきなり知識獲得を求めるのが今の子どもたちです。


「わかる」という道は、決して1本の道ではありません。曲がりくねっています。もしかしたら、途中で道が切れることもあるでしょう。


私は、「わかる」ことは「ひっかかる」「迷う」ことだと考えています。
見聞きしたことを簡単に自分の脳の中で留めることです。
「待てよ」「どういうこと」「ほんとうなのか」「他にもあるぞ」「具体的にどういうことか」など、自分の内言が活発になることです。


子どもたちには、簡単にわかってはいけないことを伝えます。
「質問してわかる」「聞き直してわかる」「書いてわかる」「自分に問いかけてわかる」など、しっかりと教えてもらっていることを自分の心深くに沈めるようにします。この沈める時間がノート指導です。
授業における沈黙の時間です。


「迷う能力」人間は迷うこと、悩むことは避けたいと思います。単純に割り切りたい時もあります。
数学者が数学で必要な能力は「迷う能力」であると書いています。
私も同感です。
私は、今も高校の数学問題を少しずつ解いています。
時間をかけて、わからないまま迷いながら考えています。
迷うことが楽しくなっています。


今の子供たちはあれこれと迷うことができません。
わからなければ「答えを教えてよ」「ネットで調べていいですか」など、迷うことをさけようとします。
迷うには心の忍耐力が必要です。
そのためには、答えをすぐに与えないことです。
先生も子どもたちが迷えるように突き放します。そのような勇気も大切ですね。


指導案をたてるときは、意図的に、どこにひっかからせるか。迷わせるかを前もって見通しをたてておきます。
学習に壁をつくり迷わせましょう。
人生は迷いの連続です。
迷える能力を育てたいものです。

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