教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 113回  厳しさ(突き放す)と優しさ(引き寄せる)のなかで

叱ると比較される言葉が「怒る」ですね。
「怒る」のは、自己中心のただ単なる感情の表れです、これに対して「叱る」ことは子供に対する目的をもっています。
しかしながら、叱る行為の裏側には単なる自己中心的な怒りがないとは言えないです。


叱るときに使う言葉があります。
「あなたのことを思って言うのですよ」
「あなたのことが心配だから言うのだよ」
本当にそうかなと思うことがあります。
私などは、上の二つのことを言い訳として叱ることがあったと思います。
だから、叱るというよりは「怒る」なんですね。


どうなのでしょうね、子どもたちは叱らない先生を歓迎する傾向にあります。
周囲も叱らない先生はやさしい先生と思っています。
その点では、叱ることは「悪」なのですね。


私たちは人間です。
私などは、きわめて不完全で未熟者です。
子どもたちに叱ることも度々ありました。
そして、叱るときは、きわめて厳しかったです。大声を上げることもありました。激怒することもありました。叱ると怒るの境目がわからなくなることもありました。
 だから仕方がないと言っているのではありません。
 「叱る、叱らない」のどちらが良くて、悪いのかという問題ではないような気がするのです。


ふだん、道行きの人に大声で怒鳴ったり、強く叱ったりすると、周りから変人扱いされます。逆ギレされて、喧嘩にもなるでしょう。


叱るという行為は、相手と私との人間関係、つながりの中でしかできないことです。どのようなしかり方をするかは、子どもによって異なるはずです。
叱ることで、その局面を乗り越える子もいる一方で、叱られると立ち直れない子どももいますね。


 叱るのがよくないとは言えないと思います。
 子どもによっては、今、叱ってほしいと思っている子がいます。
 先生の前に叱られために来ている子です。
 その時にしっかり叱って上げる場合もあれば、ほとんど、何も言わない場合もあるでしょう。その子どもがどうしたら自分のしたことを勇気をもって乗り越えられるかが大切です。
慰めがいいのか、無言がいいのか、穏やかに諭すのがいいのか。いろいろですね。


叱ると言う行為は、「子どもを突き放す」ことです。
突き放したら、あとで「引き寄せる」ということを前提とします。
子どもにとって、自分を叱ってくれている大人が、本当に自分を思ってくれてしかっているかどうかが重要なのです。
だから、怒なっても、厳しくても、その先生の気持ちが相手にひびくかどうかです。


ふだんから暴力を振るっている子どもが友達にけがをさせてしまったとき、その子の手をにぎって「つらいだろう」と共に悲しむことで気持ちが伝わることもあります。


叱るという行為は、先生にとって一番つらい手段でなければならないと考えます。それでも、叱らなければならない時、叱った後に先生の心に痛みが残ります。
叱った者も叱られた者もお互いに痛みを感じるものです。
叱ったあとになんの痛みを感じないなら、それは、叱るということではなく、ただ、怒っただけかもしれません。


先生は、学校の中で一番厳しく、一番優しい先生であることを目指さなければならないと考えていました。
厳しさ(突き放す)と優しさ(引き寄せる)の両手で子どもたちを抱きかかえることを大切にしていました。

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