教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 112回 指導とは 言葉を出し惜しみすること

「子どもをしつけるとき 言語を用いること強く戒しむるべきなり」(福沢諭吉)


「しつけ」が先生の言葉、助言、指示、命令によって「お」+「しつけ」で「おしつけ」になっています。
子どもに自分の思いを強く押しつけるからです。
なかには、しかって、どなって、おこってさせようとすることもあるでしょう。
それが場合によっては必要なこともあります。
そのことによって、一応の形ができます。でも・・・。


私は、若いときに、ベテランの先生と学年を組むとき、その先生の学級が4月から5月にはまとまっていることに不思議さと焦りをもったものです。自分の学級の混沌状況と比べては、自分に力量がないのではと悩んだこともあります。


ベテランの先生は子どもに厳しく指示を出したり叱ったりしておられました。
そこまでしなくてもという思いで横眼で見ていました。
ところが、日を追ってもその学級集団が変化しないというか成長しないというか、学級の向上がありませんでした。
それどころか、休憩時間のトラプル、学校の外での問題行動がおこりがちになりました。
そのたびに、その先生は「私は、きちっと指導しているのですが・・・」という言葉を出されるようになりました。


そして、あることに気づきました。
その先生が出張で学級を開けると、その子どもたちの実態はむごいものでした。
教室で自習に集中することなく騒いでいました。
これが面従腹背の子どもだったということです。


「口うるさい」先生は、言葉が多すぎます。
生活面でも、ほとんどが指示と注意です。
子どもたちが掃除をしていても細かく注意されます。
これは問題ないのですが、来る日も来る日も同じように注意されていることです。
最初に指示をだしたら2,3日は子どもを離すべきです。
子どもの様子を観察して、自分の指示が入っているかどうかを確認しなければなりません。
そして、欠如している面を一つだけ指示していくようにします。


子どもたちに言葉のシャワーをかけると、子どもたちは自ら考えることを放棄します。先生の指示によりかかっているほうが楽だからです。それでも、自分の意思で活動したい子どもにとっては、先生は「うざい存在」なのですね。


算数を例に取りましょう。
子どもが教科書の問題を自分で読みとって式をたてて答えを導くときに、先生の指示、助言なしにできるようにすることが目的です。
算数は自力学習を徹底させるのにふさわしい教科です。
ところが、解決の過程で先生の助言が頻繁に入ってしまうと、子どもの思考、意欲は低下しますね。
まずは、先生は言葉を可能な限り我慢して子どもに学習を任せることです。
しかし、授業を参観していると、無駄な言葉が多すぎるように思います。


生活の中でみてましょう。
特別教室に出かけるときに廊下に整列してから動きますね。
「廊下に並びなさい」
「一列にきちんとならぴなさい」
「お話をやめなさい。お口をとじて」
「忘れ物はありませんか」
「それでは、静かに出発します」
と言葉を発してからようやく移動していきます。
なぜか、毎日のように同じ言葉が続きます。
これは指導ではなく指示です。
最初の指導としてはうなずけますが、1年たっても同じだったとしたらどうなのでしょうか。


指導にするには
移動する時に先生が一番に廊下に出て黙って立ちます。
整列するまで立っています。(無言)
おしゃべりがなくなるまで待ちます、動きません。
静かになったら移動します。


最初は時間がかかります。
次にどのような行動をとればよいかをそれぞれの子どもの頭にゆだねます。
指示をだしません。
今、取るべき行動を考えられるようにすることが指導です。
移動する事が指導ではなく、考えさせる、気づかせるようにすることが指導ですね。


指導は 沈黙の中で するものです。
言葉は 必要最低限 にします。
言葉を 出し惜しみ します。

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