教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 114回 教える側のほうが楽です

教える側から考えると
どうしてあの子は宿題をしてこないのだろうか。
授業中、ちっとも勉強に関心を示さない。
テストしてもあれだけ一生懸命教えたのにできていない。
あの子にもっと勉強させたい。


そして、少しでも興味あるものを提示しようとします。
母親
食べたくないものがあると、細かく刻んで食べさせます。
あるいは、味付けを変えて調理します。
それでも食べないと母親は怒ります。
私があなたのためにがんばってつくったのに・・・、ぐち・・愚痴・・


先生
勉強、先生が一生懸命わかるように教えたのに・・・
何回も繰り返して教えてあげたのに・・・
問題をやさしくして教えたのに・・・
先生の愚痴が出てきます。
教える側の論理です。


教える側の論理で効率よく理解させることを考えます。
それでも無関心な子ども、意欲をもたない子どもがいると、先生はお手上げです。あとは、その子の能力が低いと見なすことで先生の能力を埋め合わせることになります。


私たちは、どうしても教える側にいますので、教える側の論理にたってしまいます。
しかし、受け手としての子どもの学び方、学ぶ姿、その心にはあまり関心を寄せないことがあります。


勉強の嫌いな子どもを見ていますと
わからなかったら、すぐに教えてもらおうとします。
自分で考えることをめんどくさそうにします。
考えてもわからない、わからなかったという経験を積めば積むほどその傾向は強いです。わかりませんと言えば認めてもらってきた過去の歴史があります。
そうなってくると、問題をだしても、はじめから本気で考えようとはしません。
考えてしまうと、自分の能力のなさがわかってしまうからです。
現実の自分の能力を直視したくないからです。


勉強ができる子においても、知識として何でも知っているので、新たな知識を得ても、単なる言葉として理解するだけに終わっています。
「知識を得る喜び」がみられません。
冷めている姿が印象的です。


知識を獲得させてテストで評価。
そこに欠けているものは、「知ること自体の楽しさ」です。
発見することの感動、喜びを味わう経験が乏しいように思います。
クイズ番組の知識のように、知らないことを安易に知ることではありません。
知るために、悩み考えていく自力の姿勢が必要だと考えます。
そして、どんなに簡単なことでも(その子にとっては難しい)自分の頭を使ってたどりつく過程そのものが楽しいのです。
学んだ結果としての知識よりも、「学ぶ過程そのもの」が重要です。


そのためには、先生が一つのものさし(価値基準)で評価することのないようにしたいものです。
評価というのは、人間の価値を見るのにどれだけ多くの基準をもっているかということが大切です。
人間観に根ざしています



さて、やる気のない子どもは自分の能力に対する評価が一面的です。
自分を多角的、客観的に評価できません。
それは、自分の能力を知ることが怖いからです。
勉強に取り組むよりも取り組まないほうが自分の能力の現実を見なくてすみます。そういう子どもは、自分の目標を低くするか、逆に現実にできないような高い目標を公言します。


子どもが自分についての現実を恐れずに評価できるようにするためには、周りがあたたかい雰囲気で見守る必要があります。


結果も大切でありますが、それ以上にその子のプロセスを見守れる指導者の姿勢が重要になってくると思われます。
とはいうものの、結果を出さないと困ることもあります。
プロセスが大切だとはだれでもわかっていることですね。
子どもの学びのプロセスを見守るとは、先生にとって忍の一字です。
待つ、見守ることほど難しいものはありません。
それは、私自身の生き方と関わっているからです。
教えるほうが簡単です。待たなくていいからです。

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