教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 1081回 つぶやきは、自発的な学びの芽 独り学習

だれでも子どもたちの生き生きした活発な行動を望みます。
それにもかかわらず、事前に計画した指導者の思いを押し付けます。
「子どもたちのために」という理由をつけて実践します。
その前に
必要な考えがあります。
それは「子どもたちのために」てはなく「子どもたちにとって」という立場です。
指導者がこれでよしと思えることが、果たして、子どもたちにとってよいものかどうか、相手の立場で考えます。


学校の日常生活において、子どもたちが自発的にやってみようとすることがあります。
「先生、ここを片づけておきます」
「先生手伝います」
「お楽しみ会をしたいけど」
学習において
「ここのところもう少し時間がほしいです」
「班でやりませんか」
「先生、その説明わからないです」(これも自発的ですね)


学校は綿密な計画のもとに学習、生活についての指導を実施しています。
効率的な教材の消化の立場からは、ある程度の成果はあがっているでしょう。


反面、子どもたちに潜んでいる個性や才能は押さえられがちになっています。
全体的に子どもたちの統制がとれているようには見えます。
しかし、授業においても活気がみられません


授業において、子どもたちはつぶやきます。
低学年ほど、大きな声でつぶやきます。
つぶやきは、自発的な学びの芽です。


このつぶやきを「今は、静かにしていなさい」と押さえてしまいます。
「勝手に話さないように」と制止してしまいます。
私たち先生は、常に、統制された状態を望んでいます。
学びや話し合いにおいて混沌としたものを避けようとします。
ところが、子どもたちの本音が明確に露出しているのは「つぶやき」なのです。


そのつぶやきのなかから、子どもたちのひらめき、個性を引っ張り出します。
指導を一歩引き下がれば、そこは、子どもたちのつぶやきでいっぱいになります。
教えようとする先生。
教えるとは「高いところから低いところに伝える」という意味合いがあります。
そうではなく、先生と子どもが「共に語り合う」という立場で、子どもたちと接してみてはどうでしょうか。


ちなみに指導案のなかに「つぶやきの時間」を入れておきます。
ペア、班、全体という学習形態があるとすれば、「つぶやき」も個別的な学習です。
つぶやきからペア学習へ
つぶやきからノート学習へ
全体からつぶやきへ
低学年ほど、このつぶやきの時間を設定すると有効です。
「勝手に話してはいけません」
「手を挙げて話しなさい」


こうしてつぶやくことを押さえます。
勝手に話されると、自分の授業進行に支障をきたすからです。
もし、授業が子どもの立場で考えられるならば、「つぶやき」が最初にあります。

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