教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 1082回 待つことを育てると言います

子どもたちの成長を願うあまり、ともすると先生は性急に成果を上げようとします。
子どもの機械化につながります。
スイッチをおしたら必ず明かりがつく照明器具。
子どもにこういう指導したら、必ずこうなるという思い込み。
そこから「〇〇式教育」なるものが生まれてきます。


先生は「教えること」を最重要に考えています。
教えたら、教えさえしたら、子どもは理解するだろうという傲慢さ。
「前に教えたでしょ」「何回教えたらあなたはわかるのですか」


一人ひとりを個別に見ると、どの子にも「伸びる機会」が秘められています。
A児童は4月、今、今が伸びる時期。
B児童は梅雨時期。
C児童は夏休み以後。
仮にそのように判断したときに、A児童は、4月の今に全力投球する。
B児童は梅雨時期に全力投球できるようにする。
それぞれの子に、下地をつくる。
C児童は、能力を伸ばすことよりも、学級の中の人間関係に力点をおくようにする。


伸びる時期が違うのです。
それを一律に押し付けてしまいがちです。

たとえば、「全員発言」を全体指導としてあげれば、無理な子どもがいます。
みんなの前で発言できる時期が違うのです。


子どもを育てる入り口がちがいます。
苦手なことが学習私欲の生涯になっている場合。
得意な勉強が十分にひきだされていない場合。
一人で勉強できるのに、学級という集団においては緊張する子
友だちと対話することが苦手な子は話し合いの場において緊張。





子どもを長期的(担任の場合は1年)にみるとき、
「教える時期」と「育てる時期」がそれぞれの子どもによって異なることに配慮することが重要なのです。
植物においても発芽して苗に育ってから肥料を与えるのに、種の間に肥料をいれてしまいがちです。


4月当初、集団の圧力に押されがちな子ども。
この子には、学習よりも学級にとけ込めるような指導計画を立てます。


学習、たとえば算数に必要以上に劣等感を抱いている子ども。
その子に4月から算数の個別指導をしたらどうでしょうか。
子どもが「自分はやっぱり算数がためな子だ」という先生に対する印象を与えることになります。


苦手な教科を指導したいなら、そうではないどちらかというと得意な教科から指導したほうがいいです。
その教科に自信をもつことができてから、苦手な教科に入るほうが有効です。
「あなたならやればできたね」という言葉が重みを増してきます。


一つの例を紹介します。
4月からいつも算数の教科書を忘れてくる子どもがいた。
そのような日が二週間も続いた。
算数の時間になるとふざけることがある。
「先生、教科書を忘れたから勉強できないよ」と反抗する。
教科書をとなりに見せてもらっても、問題を解こうとしない。
それは、自分の算数における無能さを友だちに見せたくないからである。
この時に「教科書を忘れずに持ってきなさい」と注意してはいけない。
忘れる裏にある子どもの気持を察するこどである。




彼は体育が得意である。
授業のなかで、友だちの前で模範演技をさせるようにした。
彼は、友だちからほめられることがうれしくなった。
やがて、体育の準備体操を任せた。
さらに、体育、特にゲームの計画を立てさせた。
そして、全面的に任せてみた。
うまくいかないときがあっても注意や指示をしない。


任せることは相手を信じることである。
子どもからすると、先生に信頼されている、期待されているという実感を伴う。


子どもたちが伸びる時期は、子どもによって異なるということを再度考えられたのどうでしょうか?


教えるときは、子どもが受け入れられる準備が整っているときです。
そうでない場合は、発芽するまでじっくりと待ちます。
待つことを育てるて言います。
しっかりと見守って待つのです。

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