教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 1077回 ゆとりをもって指導を半分にしてみる

子どもをゆとりをもって、じっと見つめてみる。


子どもをゆとりをもって見守ることは難しいです。
目の前の子どもの事実に焦りうろたえることがあります。
そして、感情的にとらえてしまいがちです。


いつも冷静にはなれない。


しかし、自分の言動を振り返ることができたらいいと思っています。
自分さえも揺れ動く存在なのに、さらに、揺れる子どもたちを見守ることは難しいですね。


三学期になると、先生は、責任感と義務感に追われてつい口うるさく注意、指導しがちです。
思うようにならないと厳しく叱ることもあります。
あるいは、無理やり自分の思うように子どもに強制することもあります。


このような過剰な先生の干渉は、先生の期待とは裏腹に多くの子供たちを不愉快にさせています。
場合によっては、
「先生、うざいんだよ」と言って反抗する子ども。


その場の先生の対応が問題。
さらに、反抗する子どもを押さえつけようとすると学級崩壊の種をまくことになります。
「先生は、うちのお母さんと一緒だよ。うるさいよ。」
と、指導を拒否する子ども。


さて、どうしたらいいものでしょうか。
子どもに対する指導を思い切って半減するのです。
そして、子どもがどのように行動を展開するかをじっと見届けます。
見届けることは先生にとって不安です。
自分が注意、指導しなければだめになるのではと思いがちです。
しかし、注意指導した結果が、子どもの反抗の助長であつたとしたら。


ここで考えてみたいことがあります。
指導してうまくいく」ことより「指導しなくてもうまくいく」(見守るだけ)事のほうが、教育的価値があるのではないでしょうか。


指導していないことが、間接的に子どもの姿に表れることがある。
「えっ、急に変わった」「できるようになった」ということがあるはずである。


三学期になって、一学期と同じような注意をしていることは、先生としての指導力がなかったということです。
先生は、自省することが必要があります。

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