教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 1062回 子供になめられたら なめられながら成長すればいい

小学生は、日々目のぐるしく変わるものですね。
だから、欠点も非常に多い時期です。
その時に、先生が絶対的な立場に身を置くと、子供たちの欠点だけが強く印象に残るものです。


「どうしてこんなことができないのだ」
「これぐらいのことが我慢できないのか」
「どうして聞くことができないんだ」・・・いろいろ
欠点が目に入るたびに、先生の口から愚痴が自然と飛び出します。


先生は、自分の子供時代をよく覚えている人が、いい先生になれるということを聞いたことがあります。
そうですね、先生も子供時代は、似たようなことをしていたのではないですか。
そのようなことを頭に浮かべると目の前の子供たちを受け入れることができます。
ただし、小学校から大学までまじめで優秀な先生は、子供との間に隙間をつくりやすいです。
できない子の子供の気持がわからないそうです。
だから、いつも「どうして・・・できないのよ」と愚痴をこぼされているのを見てきました。


先生は、優しい先生、親切な先生を心のなかで暗示しやすいものです。
でも、先生自身が不完全であることを認めましょう。
子供の模範となろうとあまり意気込まないようにします。
そうすると気楽になります。


子供の欠点についてもおおらかに対応できるようになります。
もっともいつもそうだとはかぎりませんね。
いらだちと焦りがこみ上げることだってあります。
そのいらだちや焦りは、保護者や同僚の目を意識する時にでることもあります。
それが自然な先生のあり方です。


「先生だから子供のお手本に」といわれる先生。
わたしなどは、人生をお手本になるような生き方をしていません。
だから、欠点ある先生として子供たちの前に立っていました。


「子供になめられたらイケナイ」といって虚勢を張る先生もおられます。
しっかりと子供たちになめられたらいいのです。
なめられても先生は子供たちの先生です。
なめられながら成長するようにすればいいことです。
先生は先生であることに自分の器以上のことを期待していないでしょうか。
それを驕りといいます。

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