教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 1060回 子供に 受け入れられることを意識しない

子供たちが望んでいる担任は、「やさしい先生」「親切な先生」「面白い先生」となっています。
このことを正面から受け止めて、若い先生の中には、子供集団に「受け入れられる」先生になろうとしています。
そのために悲壮な努力をされている方もいます。
子供たちの人気獲得に一年を費やしている風潮がうかがえます。
現場の先生は言います。
「子供が私を好きだと言ってくれました」
「子供が先生が担任でよかったと喜んでくれました」
先生はそれを聞いていて安心されています。


子度たちは自分の利益にかなうと先生のことをほめます。
子供たちは先生のファンでも取り巻きでもありません。
子供たちに受け入れられることが本当に指導者として重要なことでしょうか。
一年間の最後に「先生ありがとう」と受け入れられたらいいです。


「受け入れられる」ことを強く意識すると
①結果として子供たちを甘えさせる。
②先生として子供を叱れなくなる。
③子供たちの前で失敗をしないようにする。
④子供たちの生き方の手本になるように背伸びする。
⑤マイナス点を指摘されないように虚勢をはる。


結果として、先生はぐったりとして疲れてしまいます。
こうなると、先生は、夢も希望も理想もはぐくむゆとりをなくしてしまいます。


若い先生を見ていると、覇気が見られません。
明るさと快活さがありません。
いつも子供たちの前で腕組みをして仁王立ちしています。
若いのに、何十年も先生をしているような言動ですね。
老成化された顔が痛々しいですね。
指導者としての先生は、子供の人気を気にしてきいけません。
人気を気にしすぎると、先生の本当にしたいことができません。
どんな子供たちに育てるのか明確な目標をもって指導している限り、子供たちは理解してくれるものです。


そのためには、一時の指導者としての孤立、孤独を恐れない。
子供を厳しく指導することもある。
その厳しさの先には、先生のやさしさがある。
日々の先生としての地道な実践が子供たちに理解される。
すぐに理解されることばかりではない。
でも、子供の先の姿を意識して頑張るしかない。
それが実践者の姿。

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