教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 1049回  授業は「させる」意思を明確にもつ

かつて、総合的な学習が始まって以来、子供の気づきを大切にするために、意図的にさせる学習をよしとしなくなってきた。


かつて指導案の指導目標の文末は、「・・・させる」という 文言で終わっていた。
やがて、「指導者の意図を前面にたざずに、子供たちが学びにおいて気づいていけるようにする」という考え方に変わってきた。


「学びにおける気づき」については、私も同感である。
しかし、現場の指導案を拝見する限り、指導者の明確な意図が見えてこない。
助言、指示だけで子供たちの学びは深くなるのだろうか。
助言、指示をしているうちに、なんとなく子供たちが学びの目標に近づいていくような指導案を目にすることがある。


教材を前にして
この教材をどうしても理解させたい。
この教材で、〇〇のような考え方を身につけさせたい。
この教材で〇〇のことを考えさせたい。
「させたい」という指導者の意思を明確にするのが授業者である。


そうしないと、子どもたちの学びに追従する授業になる。
それがあたかも子ども中心であると思うようになる。


確かに、学びの中心は子どもである
しかし、授業の中心はあくまで先生である。
総合的な学習の失敗は、まさにそこからきている。
子どもに任せて寄り添うことが学習だと考えた。
しかし、その背景には、指導者の強い意図がなければならない。
こうしたい こうすべきだ これだけは指導したい。
指導者の強い指導の意思が根底になければならない。
そうすることで、子どもの指導に方向性が生まれる。


「子どもの興味関心に沿って」と「子ども任せ」とは違う


指導案の文言を変える必要はない。
大切なのは、先生の「させる、させようとする」意思である。
実際にさせるというのではなく、意図的な姿勢である。


授業の目標があいまいである。
あいまいだから指導過程がぼけてくる。
平板で子供の意気が高まらない授業が進行する。
もちろん、そうではない先生も多くおられることを知っている。


ちなみに、指導者の講義中心であっても子供たちが集中している授業はすばらしい。(教えたいことを明確に持っているから)
それができるようになってから、子供の学びの活動を組織する。
講義で子供を魅了できないのに、班活動や話し合い活動を取り入れてもうまくいかない。
授業のなかで15分間、先生の話だけで子供を魅了してください。
これが修行です。

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