教育随想 1040回 問題は わかったら迷え
理科や社会の問題解決学習において最後は結果、結論にたどり着く。
そして、結論を出したらすぐに正しい知識として指導者は子供たちに理解を求める。
どのような結論であっても、そこには、角度を変えると疑問がわく。
その疑問こそ、学びの一歩である。
学びは疑うことである。
本当にそれでいいのか。
それでは、こうしたらどうなるのか。
子供たちが答えを出したとき、まず、疑ってみる習慣を形成する。
算数の場合も同じである。
他教科に比べたら、答えは明白で疑う余地がない。
しかし、なぜ、その解き方でいいのか、解法が他にもあったのではないか。
答えを確かめるのも、検算するのも自分を疑うことである。
問題の答えを疑うとは、学び手である自分を疑うことに他ならない。
答えを疑うのではなく、学び手の問題解法の過程を疑う。
社会科の学習は、その真ん中に生きている人間がいる。
生きている人間は、理科で取り扱うものよりも不確実である。
歴史上の人物や地域の貢献者を扱う教材がある。
教科書に掲載されているのは、あくまで人間の側面である。
反対から見ると違うものが見える。
もちろん、このようなことは小学生で追究することはむずかしい。
しかし、自分が得た結論、知識を少しばかり「それでいいのかな」という揺らぎが必要である。
それは情報化社会における情報の扱い方にも関係することであるから。
だから、授業の最後にまとめるとき
「このようなことがわかりましたね」「これはわからなかったですね」というまとめがあっていいのではないだろうか。