教育随想 1041回 言葉が渇き その重みがなくなった
供たちの登下校の行き帰り。
学校でおもしろかったこと、いやなことの不満が聞こえてくる。
しかし、その話を周りの子が同意しているわけではない。
どちらかという聞き流しの状態である。
友だちの不満を自分のものとして受けとっていない。
ある子は、自分の気に入っているゲームの話をしている。
不満の話もゲームの話も同時進行。
それぞれの子供が口から言葉をばらまいている。
聞く聞かないかは重要ではないようだ。
発散があるだけである。
あいさつもしかり。
「おはよう」は、今日も元気に会うことができたね、うれしいよ、よかったよという気持ちが言葉にくっついている。
「さようなら」明日も元気に会おうぜ、という期待と願いが込められている。
あいさつ運動や先生に指示された挨拶には、言葉に気持ちが付着していない。
言葉が乾いている。
言葉が枯れ葉がとなって木から離れ落ちてくるようだ。
言葉が相手に届かなくなっている。
テレビの番組、情報が言葉となって、画面から機関銃のこどく飛び出してくる。
あたり一面を情報の海にする。
コロナ観戦情報は、本当にひどかった。
不安と恐怖だけを与えるような報道の仕方だった。
こちらが求める情報など一つもなかった。
不安よりも安心のための情報もあったはずである。
私は、最初かにワクチンを疑っていた。
いろいろな文献を読んで自分なりに研究した。
200ページ近い資料が集まった。
病院に行くと今でも、受付で高齢者が「ワクチン受けたいんだけどやってないのか」と責め立てている。
恐怖の情報を与えられた後遺症である。
言葉の力は大きい。
しかし、その言葉に愛情、やさしさが伴っていない。
誰もが安心できるやさしさを伴っていない。
少し話題からそれてしまったが、言葉の裏にしっかりと話し手の気持ちをこめて発するようにしたいものであると常々思う。