教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 1036回 保護者の顔色を見て動く 学校

今、音楽会の練習をされている学校がほとんどでしょう。
音楽会は、学校の音楽教育、集団教育をする上において大切な行事です。
ところが最近において、(以前からかもしれないが)この行事が学校の主体性を失う状況になっています。


いくつかの例を紹介します。
学校が決めた曲目に対して、保護者が「古い」「楽しくない」「もっと聞きごたえのある曲を」という注文がついたとのことです。
そして、曲目を保護者のアンケートで決定するということがおきました。
曲目の決定は、音楽担当の教育目標にそって決定されるものです。
保護者のためのコンサートではありません。


音楽会で子どもたちの担当楽器を決めます。
たいていは、簡単なオーディションを実施して、専科と担任で話し合って決めます。
ところが、楽器担当が決められた放課後ことでした。
放課後に保護者からの一本の電話が入りました。
「うちの子どもの希望する楽器ができなくなったので子どもが落ち込んでいます。どのような基準で決定されたのですか。その根拠を明確に公表してほしいです。」
あるいは、こんな電話もあったそうです。


「うちの子どもが自分の希望している楽器ができないので、死んでしまいたいとまで言っています。(脅し)」
「学校に行きたくないと言っています。不登校になったらどうしてくれるんですか。」


結局は、学校として波風立たないように変更したり、音楽専科が家庭訪問をして説明したりしたそうです。


親の教育力の欠如を棚に上げて、すべてを学校教育の責任にしてくるのです。


親にとっては、子どもは自分の思い通りにできるペットです。
あるいは、子どもの機嫌取りに躍起になっている従属的な過保護です。
これは、ほんの一部だと思います。
そのような親が学校にクレームをかけてきます。
不登校の責任の半分は今までの親の教育にあります。(経験的に)
それすら問題にされない世の中です。
先生だけがつらい目にあっているという状況を耳にします。


さらに、重要なのは、学校の主体性です。
子どもたちに主体性と指導しながら、実際には保護者の顔色を伺うことが多いです。
どうして、学校は自信をもって対外的に物が言えないのでしょうか。


それは、教育に学校関係者が自信がないからです。
子どもたちの姿に結果を出している学校では、保護者は学校や担任を支援してくれます。
「うちの子がこんなに変わったのですよ」という感動が、保護者の学校に対する見方を変えていきます。


教育はどこまでも一人の子どもの姿に、指導の結果を具現化する営みです。

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