教育随想(授業づくり・集団づくり・児童理解)

実践、反省、さらに実践・・・

子供たちを相手にして、悩んだり迷ったりしている先生に読んでいただきたいと思っています。
迷うことが、悩むことが先生の良心であり、最も大切な能力ではないのでしょうか。
 わかったことよりわからないこと、できたことよりできなかったことに 心を向けていく先生は 素敵だと思います。

教育随想 1031回 いい授業 求めて 永遠に求める

先生方に「いい授業とはどんな授業ですか」と尋ねると、いろいろな答えが返ってきます。


指導に沿って着実に学習が進んでいく授業。
計画・意図されたことが、時間の終了とともに達成されている授業。
子どもたちの発表が多い授業。
先生中心ではなく子どもの活動が多い授業。
授業者の巧みな技術が子どもの指導に多く見られる授業。


それぞれの先生の理想とする、目標とする授業の型なのでしょうか。


私は、いい授業と思えるものは、ほとんど達成できなかったです。
自分の計画された案でその通りいくものはありませんでした。
また、計画どおり進めたいと思ったこともありません。
むしろ、子どもたちによって私の計画が覆されることを望んでいました。
私の予想外の子どもたちの考えや動きが楽しみでした。
機械を相手に活動しているのではありません。
人間、それぞれ個性ある子どもたちを相手にして授業をしているのです。


よく、「これが授業だ」とか「素晴らしい授業だ」と言われる先生がおられましたが、その先生の授業を参観させていただくと疑問が残りました。


私は、いい授業とはどういうものかわかりませんでした。
でも、若い時から自分で行動したことがあります。
できるだけ多くの先生の授業を参観させてもらうことです。
校内はもちろん、全国的な研究会に数多く参加しました。
名人と言われる先生がおられたら、どんなに遠くでも車を走らせました。
直接、電話をかけて授業参観をお願いしたことも多くありました。


特に私が心を動かされたのは、先生の指導ぶりよりも子どもたちの学ぶ姿勢でした。
どんなに立派なことをお話になっても、実際の教室、授業を見せていただくと期待はずれすることも多かったです。


先生の指導に食いついていく姿、子どもたち同士で学びあう姿でした。
だから、参観では、先生の姿はほとんど目に入れることはありませんでした。
子どもの表情、一時間のなかで刻々と変容する子どもたちの眼差しに強く関心を寄せました。
授業参観は先生の顔をながめるものではありません。
子どものの表情に釘付けになるものです。

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